岡崎京子展「戦場のガールズ・ライフ」、最終日に駆け込みで行ってきた。いくつか興味深かった事・考えた事。
1. 傷ましい享楽を与える美的表象
印象深いのは、やはり岡崎京子の描く、悲劇的な女の表象であり、かなり痛ましい美しさを伴っている。享楽的な美的表象に優れているといえるだろう。それは、へルタースケルターに象徴されるように、消費社会的な欲望を追及しながらも、それを単に肯定するのではなく、破滅的な終局、その人工的で欲望を追究した結果の美が壊れていく様を描いているわけだけれども、こうしたストーリーを意識的に描いているあたりが関心をそそるし、どうも挽き付けられてやまない。
問題は、その場合の「欲望」だ。欲望とは、「他者」の欲望なのだけれども、それまで、リリコのような、カリスマ的美の形象に自己同化させていくときの欲望とは、男どもが欲望する対象への同一化なのだと思ってきた。しかし、展示を見ていくと、そうでもなくて、その「他者」に、同世代の女の彩りが強いという事を意識させられた。ポイントは、同世代、というところで、世代的な隔たりが確実に描かれている。というよりは、同世代の少年少女青年・女を中心的に描くことによって、極端に、中心的な登場人物たちの世代である10代後半から20代あたりとは違う世代の生き方や感情が全く焦点に入ってこない。
同世代の「女」の欲望が強いと思ったのは、たとえば、男が入るや、女同士の関係性が壊れていく話を例えば「危険な二人」で描いているのを目にしたから。
男との関係が介在するや、女達の共同性は打ち砕かれる。そう考えると、確かに『へルタースケルター』においてリリコを支えていたのは、同世代の女達だったし、そのリリコの整形事情を暴露したのが、羽田ちゃんという同世代のマネージャー(?)の女性、それまで彼女を陰で支えてきた女だったのは考え深い。
2. 「終わり」への恐怖について。
終わり”は、何か違うものの”始まり”であることが多い。たとえば、「私の青春は終わった」などとため息とともにつぶやき寂寥の念を感じたとしても、”青春の終わり”は”大人の始まり”、新しい何かの始まりでもあるのだ。
そういう意味で、私は世界が終わってしまうといった世紀末の終末感より、むしろ”世界が終わらないこと”のほうが怖い。終わらない、この日常をジタバタと生きていくことの方が恐ろしい(『クリーク』1995年4/20号)
岡崎は、このようにして、宮台真治が主張した「終わりなき日常」を生きろ、と言う主張に結果的に(?)抗っている。
悲劇的な結末へのこだわり、それは、日常を終わらせるための、岡崎的処方だったのだろうか。しかしどうして、日常が終わらないと怖いのか。それを考えるに興味深いのは、この岡崎が忌避した「世界が終わってしまう事の終末観」に見られるのは、自分が他者達と共有可能な世界として想定されているのに対して、「世界が終わらない事」というときの、「世界」の意味が、“わたしの世界”の意味合いが強いように思われる点である。つまりは、日常が終わらないということは、“わたし”が永遠に続いてしまうことだと、岡崎は漠然と考えていた節がある。
リリコがその「欲望」を追求するとき、あたかも同世代の女達のアイドル=偶像として、共有された像を提供しているようにみえるとき、そのリリコが、じぶん”をかなり強調するならば、その意味は、世界から隔絶された“じぶん”の確立にしか思えないし、他方で、それは、「欲望」の枯渇であるに違いない(「他者」がいなくなれば、欲望も不可能だから)。しかし、それは岡崎にとって希望だったのだ。つまり、“じぶん”というものが終わってくれるならば、それは、また新しい何を作ることができるからで、そこでは共有された世界だって可能かもしれないという、いわば、よじれた希望だったのだ。その意味で、展示の冒頭あたりに置かれた、岡崎のこの言葉は重い。
いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを。
主人公を一人の女の子にしたからと言って、「一人の女の子」を描くことはできない。描くためには、その女の子の、終わりを描くことによってだけなのだ、まるでそう言いたげな言葉。一人の人間が終わる事、それは、それによってはじめて、世界が終わること、はじめて、死ぬ事ができるということだろう。こう考えたとき、あるサイトで僕に実に鮮烈な印象を残した、あるブロガーの言葉が思い出される。
僕が死ぬ事が怖い理由は僕自身が産まれてしまった生きてしまった何よりの証拠が自分の死なんです。(「僕はHIV」http://03190317.blog.fc2.com/。いつの記事だったか忘れてしまった。。)
ふつう死は、「個人」の終わりを意味する。けれども、この方があまりに説得的に語るように、その「個人」を明かす/証かすのは、「死」によってでしかない。言い換えれば、「一人の女の子」が描かれるためには、その女の子の崩壊まで描かないといけない。逆に崩壊から遡ってしか、一人の女の子は描くことはできないのではあるまいか。
“僕”は、いつ死ぬ事ができるだろうか。それは、“僕”を完成される「死」によってだろうか。こんなことを自分に翻って考えるとき、前期ハイデガーの死に向かう存在を想起せざるを得ない。ただ、岡崎の希望こそが、そうであればなおさら重要に思われる。個人主義的・人間主義的に解釈された(そしてハイデガー自身が『存在と時間』あたりまではそう思っていた節がある)実存の死への先駆けには、終わりこそがすべてであり、終わりの後に新たに始まることは当然考えられてはいない。対して岡崎が、終わりの後を考えるとき、そしてそこに希望を見出すとき、逆説的(先ほど主張したこととは矛盾するかのように)にも、岡崎が描こうとする「ひとりの女の子」は、あまりにたくさんいすぎている。複数である。ひとは一度死ぬ事で、再出発が出来る。それは、岡崎にとっての「死」が身体的でかけがえのないものではなく、象徴的な死であることを教えてくれる。それは、身体の死に対して、小さい死ということだろうか。
リリコは、自己毀損の上に、死んで、姿を消した。しかし、タイガーリリーとして、アジアのどこかで生きて、別の生を始めている。そのときの、「死」は、あくまで象徴的なもので、それまで作ってきた自己像の「死」でしかない。岡崎京子にとって「自己」は、ひとつだけれども、何度でも再生成、それも同一物を反復するのではない仕方で、別の「自己」を作ることができる、そんな類のものだったんだろうか。類まれなミュータントに違いない。