この一年、わたしがじぶんのなかで確認したことは、自分のいま探求したいテーマが「自己」をどう変えていくことができるか、とりわけ自分のセクシャリティーをいかに刷新することができるのか、そういうことである。
父とのいざこざもあったのが2018年であったけれど、正直いまはどうでもいい。もしかしたらこのHP上で、blog記事では、家族関係に執着しているような言葉を書き連ねているため、誤解される余地があるが、基本的になぜ家族関係への問いを持っているか、といえば、家族関係から自由になりたいからであり、精神分析が指摘するように、己のセクシャリティーの形成に家族関係が濃厚に影響を残すから、ただそういった視点からに過ぎない。
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笠原美智子『ジェンダー写真論』
セクシャリティーの問い直し、そういったテーマを再確認させてくれたのは、2018年夏に読んだ、笠原美智子『ジェンダー写真論』だ。
笠原自身の視点は、ヘテロセクシャルなマジョリティーの「学芸員」として、セクシャルマイノリティの写真家たちを、紹介していく立場であり、そこでの立ち振る舞いは、いま手元に本がないため詳述はできないが、基本、不遇な境遇を強いるマジョリティーとしての「罪悪感」を漂わせていた、それが読後すぐに感じたことだ。
しかし、本書がわたしに強烈な印象を残したのは、笠原が紹介する、とりわけ「セルフポートレート」を撮る写真家たち、彼/彼女たちの、じぶんのセクシャリティへの問い直そうという振る舞いだ。わたしはこれまでいまでいう「セルフィ―」を撮る写真家たちに関心を持ってきた。例えばそれは、深瀬昌久しかり、シンディー・シャーマンしかり。
なぜ「私」は「この私」なのか。哲学的な分類でいえば、「独我論」への問いとも結びつきやすい。「私があることは確実だ」となれば、デカルトになる(「我思う、ゆえに我あり」。ただ、「独我論」的な話ではなく、「世界」の成立をわたしは前提として、そのうえで、なぜ「この私」となっていったのか、その歴史性を問いたい。
フェミニズムの議論でいえば、わたしの問いは、ジェンダー構築主義に属するそれである。歴史的文化的なシステム(家族、社会、国家)の中で、いかに「自己のセクシャリティ」が構築されてきたか、ということを問うている。そして、その構築から自由になること、あるいは再構築していくこと、それを問うている。
2. 『欲望会議』
年末、熊本に帰省する中で、『欲望会議』をkindleで読んだ。読みながら考えていたことも、この文脈と無関係ではない。
脱線すれば、kindleは、いまこうして読書を振り返るときには、大変不便な本の形態なのは間違いない。紙の本であれば、感覚的に本全体の何cmくらいの、あのへん、という形で、ひっかかった場所がすぐに思い出される。もちろん、ハイライトやメモ機能がついているので、そこをたどれば、kindleの方が簡単に気になった個所を検索できるときもあろう。ただ、これはネット検索同様、本を読むという行為の中にある脳内におそらく構築されている流れが、ぶつ切りにされている感覚がある。また、kindle contentのフォルダーを管理しないと、ハイライトとメモもまた紛失するという問題もある。当然である。
さて、『欲望会議』で面白かったのは、まず千葉氏によって、一定20-21世紀に及ぶ「人間」の変化の見通しが提示されていたことだ。
千葉:言語 は 人間 の 外側 から 人間 の 体 を 乗っ取っ て いる。 人間 には、 言語 を 使わ なく ても コミュニケーション できる 面 が あり ます。 それ と 言語 の 自動 性 が 組み 合わさる こと で、 人間 という ハイブリッド が 成り立っ て いる
千葉 雅也; 二村 ヒトシ; 柴田 英里. 欲望会議 「超」ポリコレ宣言 (角川学芸出版単行本) (Kindle の位置No.1860-1862). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.
千葉 コミュニケーション って、 共通 化 する という こと です からね。 だから、 コミュニケーション 自体 に 警戒 し なけれ ば いけ ない し、 僕 は 無関係 が 大事 だ と 抽象的 な こと を 言う わけ です よ。 やっぱり いま、 文学 は 滅び そう に なっ て いる と 思っ て い て、 それ は コミュニケーション 優位 に なっ て いる から です よ。
千葉 雅也; 二村 ヒトシ; 柴田 英里. 欲望会議 「超」ポリコレ宣言 (角川学芸出版単行本) (Kindle の位置No.1875-1877). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.
「人間」というのはハイブリッドである。言語という「他者」によって駆動されつつも、感覚的かつ情動的なコンタクト(=「コミュニケーション」)を同時に行う存在者。しかし、いまや「他者」の領域は、情報として、ネットで可視化され、感覚的かつ情動的なコンタクト(それこそ、ラインスタンプのやり取りが象徴的か)が優位とされ、「他者」の領域が縮小されていっている。そうなると、「文学」さえももはや成立しなくなる、それが21世紀の問題なのだ、と。ハイデガー的な用語でいえば、「存在」への依存を否認する「存在者」たちの乱立だろう。
そういう意味では、わたし自身、20世紀的な、「無意識」の豊穣さに規定された、「欲望」を持つ「倒錯者」であり、今後は、「倒錯」的な「欲望」は再生産されなくなっていくのだろうか。
もちろん、千葉氏らの発言は、おそらく、完全に「人間」の「死」(といえば、フーコーじみてくるが)を言うものではないだろう。「文学」のメタファーの領域に足を踏み入れる者が数を少なくしているという現状との関係を指摘しているだけで、では、この「会議」で語られるポルノの消滅などが本当に起こりえるかといえば、時代の状況ともそぐわないとわたしは思う。
ネットでのポルノの横溢、それが、20世紀末から21世紀はじめに生じていることである。と言うと、千葉氏らは言うかもしれない、いやだからこそ現在ではポルノ動画の一部分しか見ずにそれだけで簡単に「ヌく」ひとが増えている、それもまたコミュニケーション優位の現れ、セックスの消滅の現象だ、と。
そう思えなくもないのだが、ではそこで「ヌき」の「対象」となるイメージはいかにして形成されるのか、そこには、新たなセクシャリティーの歴史的規定性が絡んでいるのではないか。
セクシャリティーの歴史性と絡むのは、「ルッキズム」の問題についても同様だ。
柴田 近年 の ルッキズム の 否定 という のは、「 被 支配 集団 の 更 なる 序列化」 という 理念 よりも、 ポリコレ 的 な 配慮 として 提唱 さ れる こと が 多い と 思い ます が、 それ は 同時に、 自分 の 身体 を 引き受ける こと の 放棄 でも ある と 思う ん です よ。 千葉 広い 意味 で「 私 に 魅力 を 感じる な」 という 感じ に すら 聞こえ て くる よね。 それ は、 全員 が 平等 で 透明 な 人権 主体 として 存在 し て いる という 近代的 な 公共性 の レイヤー に、 魅力 だ とか よく わから ない 濁っ た もの を 持ち込む なと いう こと なのかな。
千葉 雅也; 二村 ヒトシ; 柴田 英里. 欲望会議 「超」ポリコレ宣言 (角川学芸出版単行本) (Kindle の位置No.1189-1193). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.
「ルッキズム」への批判は、「見ること」に孕む権力を意識せよ、ということである。しかし、「見ること」を完全否定したとき、それは、千葉言うように「私に魅力を感じるな」ということであり、極端に言えば、「世界を見ること」の拒否でもある。
もちろん、「見る」ことは構わない、しかし問題なのは「まなざし」を向けるな、ということなのだ、という反論がありえよう。ここには、受動的な感覚としての「見る」と、能動的な行為としての「見る」=「まなざし」が分離していて、柴田いわくこうした議論は第二派フェミニズムとやらが持ち出したらしいが、そうなると第二派フェミニズムは、特定の権力関係をはらむ「まなざし」へを問題にしているわけだ。
千葉と柴田、両氏はおそらく、「見る」ことと「まなざす」ことは、切っても切り離せない、そう言いたいのだろう。そうなるとポイントとなるキーワードは「魅力」という語だ。気っても切り離せないが、両氏が言いたいのは、切り離したときに受動的なエロティシズムという、エロティシズムの「本質」が失われるのだ、ということだろう。「魅力」というのは、その受動性を象徴する語だ。これは、「サド」と「マゾ」の問題、あるいはその両者の関係の捉え方の問題であろう。「サド」>「マゾ」ではなく、あくまで裏で糸を引く「マゾ(ッホ)」が中心であるといったドゥルーズの研究者である千葉からすれば当然そうであろう。
「身体」を引き受けるとは何か、それは、自分の身体をどう使うか、あるいはどう使用されるか、どう「見られる」か、そこまで理解した上で、ふるまうということである、さしあたり私はそう考える。言い換えれば、自分の「身体」の「表象」の恣意性(恣意的に使用される、消費される、享楽される)を楽しむということだ。なんたって、そこに、偶然性が隠されているのだから。
自分の「身体」を引き受けるということは、自分の「身体」の「所与性」の受容でもあろう。「私は、男性器を持つ、ヘテロセクシャルな、ブ男である」という身体の美醜や、ヘテロセクシャルという「性的嗜好」をも引き受けるということだ。このあたり、冒頭で述べた通り、私は「所与」性に、気づいたとき(対自的になったとき)、そこには歴史的に規定された「所与性」がそこにはあると思う。千葉はこう言う。
千葉 でも 僕 は、 幼少 期 の 欲 動 と 結びつく よう な エロス の 問題 を、 もう 一回 考え たい と 常々 思っ て いる ん です よ。 中 動態 的 な エロス の 在り方 という のは、 責任 的 な 意識 が 生じる 以前 の エロス です ね。 それ を 考え たい ん です。
千葉 雅也; 二村 ヒトシ; 柴田 英里. 欲望会議 「超」ポリコレ宣言 (角川学芸出版単行本) (Kindle の位置No.1068-1070). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.
いわば、千葉は「規定性の弱い段階でのエロス」、あるいは対自的に原初であるようなエロスを想定するわけだ。私もどちらかというと、千葉氏と同じ方向性を向いている。(「対自的に原初である」としたのは、「エロティック」に感じた経験について振り返ったとき、最初に想起されるという意味でである。もし実際の経験への参照がなければ、経験を越え出るという意味での「超越論的」に見いだされるような「エロス」になる)
「どちらかと」と言ったのは、実は、柴田氏は、このあたり立場が異なるように思えるからだ。柴田氏は言う。
柴田 私 は 基本 的 には、 ポルノ は ゾーニング を す べき だ と 思っ て い ます。 ただ、 本当 の マイノリティ の 欲望 は、 ゾーニング を 超え なけれ ば 延命 でき ない という 思い も ある ん です。
千葉 本当 の マイノリティ の 欲望 は ゾーニング を 超える って どういう こと?
柴田 ゾーニング を いくら し ても、 微妙 に 超え て しまう 部分 が ある という のが まず 一つ。 それから、 たとえば ロリレイプ や ショタレイプ の よう な やばい 欲望 を 完全 に ゾーニング し て しまっ たら、 先天的 に そういう 欲望 を 持っ て いる 人 たち を 排除 する こと に なっ て しまう から そこ は 育て たい という 気持ち が ある ん です。 私 は、 ジェンダー は 構築 さ れ た もの で あり、 自ら 構築 する こと も 可能 な もの だ と 考え て いる けれど、 セクシュアリティ に関して は、 変更 不能 な 本質的 な 部分 も ある と 考え ます。
千葉 雅也; 二村 ヒトシ; 柴田 英里. 欲望会議 「超」ポリコレ宣言 (角川学芸出版単行本) (Kindle の位置No.635-638). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.
当初読み進めている中で、柴田氏に対して、私は「この人は反発主義的な傾向があるんではないか。」という疑念を持っていた。実際柴田氏は、「正し さ という 大義名分 の 下 から 何 か その 人 の 個人的 な 感情、「 とにかく 柴田 を 叩き たい」 という「 お 気持ち」 の 部分 が 見え た 瞬間、(略)気持ちよくなる」と言っている。このあたりからすれば、「正義」を覆すことに快楽を持っているだけで、反規範主義的なだけではないか」という疑念も出てこざるを得ない。
しかし、こういった疑念も読んでいくうちに、払拭された。確かに、柴田氏は「正義じゃない暴力性をなぜ肯定できないのかという疑問を強く抱きました」と『マッドマックス』における、暴力について(女性を虐げる悪い男性であれば射殺するのは正義という見方について)述べていて、ともするとあらゆる規範性や「正義」を考慮に入れないのではないか、と思いかねないが、要するに、なぜ柴田氏がこういった議論にこだわるかと言えば、これが「セクシャリティー」と関連するからだろう。
「セクシャリティ」と「正義」とが結びつくことそれを全く認めない立場だということだ。二村氏が言うように、私も、みんな違ってみんな変態である、という立場で、セクシャリティに「普通」もへったくれもないという考えだからだ。
しかし、私は正直、引用箇所の「先天的 に そういう 欲望 を 持っ て いる 人 たち」というフレーズを読んだ時、驚きを隠せなかった。私自身に、「欲望」の「歴史性」を問う視角さえあれど、「先天的なもの」を想定する視座はなかったからだ。
二村氏が、実際に被害にあった女性たちの被害感情を無視することはできない、と表象を見るときの「傷つき」の経験を重視し、レイプなどの表象規制は仕方ない、とするのに対して、柴田氏が援護するのが、「先天的な「欲望」」の表現である。ペドフィリアも「先天的」な「欲望」でありうる、だからその表現を否定することはできない、ということだ。
柴田氏はおそらく概念使用がきわめて緩いのだと思う。ただ、私には、「先天性」を「欲望」と結びつけて使うことはやはりできない。歴史的に構築された部分、というのは、歴史的規定性を問う視点がなければ見いだされえない。とすれば、柴田氏は、私よりもいっそう、自己のセクシャリティの歴史的構築性と向き合い、その挙句に、「先天性」と認めざるを得ないものに逢着したということだろうか。
このあたりは「正解」があるわけではないだろう。ただ、私からすると、柴田氏の立場は、逆立しているように思える。私が歴史的遡及を繰り返し、経験的に見いだされる幼児期のエロスをヒントに自己のセクシャリティーを考えるのに対して、柴田氏は、経験に依存しない「先天的」なエロスを起点として、議論を起こしているように見えるからだ。だから、私が「所与性」と使うところで「先天性」という語が登場するわけだ。
(「所与性」は、経験可能である。なぜならば、このエントリーのはじめにあるように、「なぜ「私」は「この私」なのか」という実存的な問い、これは、「この私」が気づいたときにそうなっている、いつから「私」が「この私」なのか、経験に遡及して問うことができる対象であるからだ。「先天的」が生物学的な規定性sexのことであれば、私もうなずけるが、この語が問題になっているのは、sexualityのレベルである)
このあたりは、千葉氏も言うように、どちら(人にはどうしようもない欲望があるという立場と、人はどうにかなるものだという立場をとるか)が正解か判定は不可能だろう。「本当の欲望」という語で、千葉氏は整理していったが、これはようするに当人にとっての「本来的な欲望」を認める立場であろう。もちろん、単一的な「本来性」があるわけではなく、多元的な「本来性」が乱立するような、そんな世界である。そんな世界は可能だろうか。ひとつのユートピアであるのは確かだろう。
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