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「父」の始まりについて――ドミニク・チャン「「はじめ」と「おわり」の時」に寄せて

わたしは、生を言祝ぐ言説が嫌いだ。それも、自分との連続性の中で、じぶんを価値づけるという結果的な合目的性が見出されるほど、嫌いの度合いが高まる。

 

実存的には「生まれてこない方がよかった」という反出生主義を生きているようなところがあるが、ただじぶん以外の人々、生命全般を視野に入れるや、どちらかというと、中立的である。中立的というのは、決められないという迷い、というよりは、そもそも生れてくる、生命が、自然が、その摂理(法則でもいい)が、死がある、というのは、一個体の価値判断の対象ではない、というよりも、そのような判断がくだせる主体がありうるとすれば、生を超越して、それこそ上からすべてをまなざす神のような超越者しかありえないからだ。

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