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2014年、10/19 エイシンヒカリと魔法が使えないなら

引き出しに散らばっていた、百円玉を9つ無造作に掴んでポケットに入れて、15時前に、府中の競馬場に着いた。

 

子どもたちと親たちがたくさんにぎやいで、なるべく誰にも見られないように、誰にも見られないように、スタンドへと消えていく。

目当ては、エイシンヒカリという馬。その馬が出走するアイルランドトロフィーが15時30にスタートして、エイシンヒカリは、一頭後続を5馬身近くだろうか、置いてけぼりにしながら、かつてサイレンススズカが散った、あの3コーナーをすぎて、タイムを見ると、1000メートル58秒ほどで、サイレンススズカと同じように、つんのめってしまわないか、心配になりながら、4角に彼がつっこんでいくのをみていた。エイシンヒカリは、先頭で内ラチ沿いを走ってきたにもかかわらず、僕がいるスタンドのほうに、とんでもない勢いで、突進してきたように見えた。なにが起きたのかがまったくわからなかった。唖然としながらも、その後を追うと、どうやら、エイシンヒカリが先頭でゴールした。常軌を逸した、右斜めへの斜行しながらだ。 僕は、絶対にエイシンヒカリが勝つと思っていたけれども、じぶんの手に握り締めた馬券、エイシンヒカリを3着に固定して、三連単を買ったその馬券を、見て、ぁぁ と悲しい声を出して、やぶり捨てた。

 

エイシンヒカリが勝つだろう。けれども、奇跡は起こるものだ。サイレンススズカも死んだこの東京2000メートルの単騎逃げ。そんなのどれほど信じたくてもさすがに持つはずがない。というこの奇跡にかけなければ、「配当的にまったく面白くないレース」となってしまう。
そして、その奇跡は起きなかった。でもサイレンススズカのように、死なずに、ゴールしたのでほっとした。

 

(エイシンヒカリ、アイルランドトロフィー2014年、youtube)

 

あの斜行、あれはいったいなんだったんだろうか。

 

そう思いながら、競馬場を後にしようと歩いていると、さっきyoutubeで聴いた、大森靖子の「魔法が使えないなら」が脳内を流れてきた。

 

(大森靖子「魔法が使えないなら」PV、youtube)

 

でも、こんなメランコリックな夕方に、大森靖子のこの曲は、ほんとうに堪える。

 

僕はこの子を殺してしまいたいと思った。

 

魔法が使えないなら死んでしまいたい、その想いは、ちょっと毒づいたおしゃれさで、どうみても20代半ばの大森が、岩井俊二の映画に出てきそうな少女がヒステリックに泣き叫ぶかのように、にもかかわらず卑猥ないでたちで、”魔法が使えないなら、死んでしまいたい”と幻想的に叫ぶとき、幻想が続かない事を身をもって感じているこの夕方では、どうしたら正気を保てばいいのか、わからないじゃないか。
まともなことを考えないといけない。だから、友人の選挙の事を考えた。

 

けれども、結局考えていたのは、”僕”についてだった。

 

普段、じぶんは、日常的には「俺」と使ったり、ときには「僕」あるいは「私」とときと場合を使い分ける。

 

 

競馬場のようなむさいところには、「私」か「僕」が合う。「俺」だとか「ワシ」だなんて言い始めたら、ろくでもない人間のろくでもなさとまったく距離感がつかめずそこに埋もれてしまうじゃないか。

 

友人が選挙に出るみたいで、もしそれを手伝ったとき、じぶんは「俺たち」と語ることができるだろうか。 無理だろう。その響きに耐えられない。

 

そもそも「俺」とじぶんを示すことができるのは、そこに寄る辺なさがあると思えるからだ。
もちろん、それでもどこか傲慢さをじぶんに感じたりもする。

 

だって、じぶんは、この日本社会では、ヘテロの、比較的裕福な家庭に育った「男性」に過ぎないからだ。
強いていえば、じぶんは、非正規雇用労働者、とブラックが騒がれる中、雇用関係においては弱者と一般的に言われる立場にいる程度だろう。

 

客観的に見たときに、マジョリティのじぶんが「俺」と言うとき、それは時に傲慢ではないか?
でも、これは伝わらない、それでもどうしてかろうじて使う事ができるかそれは、やはりじぶんが生い立ちのなかで、”じぶんとはいったいなんなのか”、”じぶんは父や母にとってなんなのか”、”じぶんはなんのためにうまれてこなければいけなかったのか”、それをずっと感じてきたからだ。

 

そんなおのれさえさだまらない人間が、どうしてその他の「俺」”たち”を担わなければならないのだろう。
そんな風に思うとき、大森靖子が、どうして”魔法が使えないなら死んでしまいたい”などいえたのだろうと、よくわからなくなる。でもしかたないのかもしれない。女らしさや、性を売り込むことができなければ、それこそほんとうに絶望なのだけれども、そんなことを向こう見ずに酔うことなしに叫ぶ事などできないからだ。それとも、大森靖子は、ほんとうに死ぬ気なのかな。から元気で、なりふりかまわずのたうちまわる彼女なりの仕方なのかな。でも、だったら、なんで「だってもともと自由なんだから。社会と関係なく自由でいればいい。世界は楽しいじゃん、ってずっと思ってる」*1だなんて言ったんだろう。

 

力強さ、か。絶望的に力強くなりたい。けれど、それもまた信仰だろうか。

足元の耳で聴く、貝の歌――金子光晴、東南アジア的土着性、存在感情

「題名のない残念会」[1]http://www.ustream.tv/recorded/53750444という友人が主催のラジオに参加させてもらい、金子光晴について少し語った。そこでは緊張と、緊張をはぐらかすためのお酒で、うまく言いたい事をいえなかったり、終わってすぐ気付くちょっとした間違いもあったこともあって、さらに後から言いたかった事がより整理されてきたり等々あり、改めて文章化してみることにした。

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References

References
1 http://www.ustream.tv/recorded/53750444