日記」カテゴリーアーカイブ

「父」の始まりについて――ドミニク・チャン「「はじめ」と「おわり」の時」に寄せて

わたしは、生を言祝ぐ言説が嫌いだ。それも、自分との連続性の中で、じぶんを価値づけるという結果的な合目的性が見出されるほど、嫌いの度合いが高まる。

 

実存的には「生まれてこない方がよかった」という反出生主義を生きているようなところがあるが、ただじぶん以外の人々、生命全般を視野に入れるや、どちらかというと、中立的である。中立的というのは、決められないという迷い、というよりは、そもそも生れてくる、生命が、自然が、その摂理(法則でもいい)が、死がある、というのは、一個体の価値判断の対象ではない、というよりも、そのような判断がくだせる主体がありうるとすれば、生を超越して、それこそ上からすべてをまなざす神のような超越者しかありえないからだ。

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不安と享楽

 数日、不安をもたらす映像が脳内をかけめぐっている。それはたいてい、苛み、じぶんを貶めるたぐいの想像的な物語である。

 この不安から抜け出したい、そう願えども、精神分析的思考がやってきて、「お前はその苦痛を享楽しているじゃないか」との声に、またしても順繰りの苛みへと戻っていく。

 精神分析的思考の愚かなところは、ここにある。言説として、おれのなかのおれが、その苦を享楽していることを受け入れたとしても、おれのなかのおれは、だからといって、なにもすることができない点、ここにある。 続きを読む

souvereigntyについて 

高校で講師などしていると、教育関係者に会ったりその研究会に顔を出したりする機会があるが、傍らに身を置きながら、いつも腹立たしい思いがするのが、「主権者教育」というタームとこれに関する参加者の理解である。

 

なにが腹立たしいかというと、正確には、腹立たしいというよりは、傲慢にも程が有る、という感覚に襲われるのだが、どういうことかというと、まるで、どこかじぶんたちは「主権者」であり、じぶんたちのような「主権者」のように、子ども達がなるためには、どうしたらいいか、というなんとなくの雰囲気があるからである。

 

上から目線も甚だしい、しかしそれが愚かに思えるのは、私からすれば、”じぶんたちは誰も「主権者」たりえていない”、という共通認識からでしか、議論は始まらないのにもかかわらず、それをすっとばしていて、なにかしら高邁な「教育」が語られているからである。 続きを読む

2014年、10/19 エイシンヒカリと魔法が使えないなら

引き出しに散らばっていた、百円玉を9つ無造作に掴んでポケットに入れて、15時前に、府中の競馬場に着いた。

 

子どもたちと親たちがたくさんにぎやいで、なるべく誰にも見られないように、誰にも見られないように、スタンドへと消えていく。

目当ては、エイシンヒカリという馬。その馬が出走するアイルランドトロフィーが15時30にスタートして、エイシンヒカリは、一頭後続を5馬身近くだろうか、置いてけぼりにしながら、かつてサイレンススズカが散った、あの3コーナーをすぎて、タイムを見ると、1000メートル58秒ほどで、サイレンススズカと同じように、つんのめってしまわないか、心配になりながら、4角に彼がつっこんでいくのをみていた。エイシンヒカリは、先頭で内ラチ沿いを走ってきたにもかかわらず、僕がいるスタンドのほうに、とんでもない勢いで、突進してきたように見えた。なにが起きたのかがまったくわからなかった。唖然としながらも、その後を追うと、どうやら、エイシンヒカリが先頭でゴールした。常軌を逸した、右斜めへの斜行しながらだ。 僕は、絶対にエイシンヒカリが勝つと思っていたけれども、じぶんの手に握り締めた馬券、エイシンヒカリを3着に固定して、三連単を買ったその馬券を、見て、ぁぁ と悲しい声を出して、やぶり捨てた。

 

エイシンヒカリが勝つだろう。けれども、奇跡は起こるものだ。サイレンススズカも死んだこの東京2000メートルの単騎逃げ。そんなのどれほど信じたくてもさすがに持つはずがない。というこの奇跡にかけなければ、「配当的にまったく面白くないレース」となってしまう。
そして、その奇跡は起きなかった。でもサイレンススズカのように、死なずに、ゴールしたのでほっとした。

 

(エイシンヒカリ、アイルランドトロフィー2014年、youtube)

 

あの斜行、あれはいったいなんだったんだろうか。

 

そう思いながら、競馬場を後にしようと歩いていると、さっきyoutubeで聴いた、大森靖子の「魔法が使えないなら」が脳内を流れてきた。

 

(大森靖子「魔法が使えないなら」PV、youtube)

 

でも、こんなメランコリックな夕方に、大森靖子のこの曲は、ほんとうに堪える。

 

僕はこの子を殺してしまいたいと思った。

 

魔法が使えないなら死んでしまいたい、その想いは、ちょっと毒づいたおしゃれさで、どうみても20代半ばの大森が、岩井俊二の映画に出てきそうな少女がヒステリックに泣き叫ぶかのように、にもかかわらず卑猥ないでたちで、”魔法が使えないなら、死んでしまいたい”と幻想的に叫ぶとき、幻想が続かない事を身をもって感じているこの夕方では、どうしたら正気を保てばいいのか、わからないじゃないか。
まともなことを考えないといけない。だから、友人の選挙の事を考えた。

 

けれども、結局考えていたのは、”僕”についてだった。

 

普段、じぶんは、日常的には「俺」と使ったり、ときには「僕」あるいは「私」とときと場合を使い分ける。

 

 

競馬場のようなむさいところには、「私」か「僕」が合う。「俺」だとか「ワシ」だなんて言い始めたら、ろくでもない人間のろくでもなさとまったく距離感がつかめずそこに埋もれてしまうじゃないか。

 

友人が選挙に出るみたいで、もしそれを手伝ったとき、じぶんは「俺たち」と語ることができるだろうか。 無理だろう。その響きに耐えられない。

 

そもそも「俺」とじぶんを示すことができるのは、そこに寄る辺なさがあると思えるからだ。
もちろん、それでもどこか傲慢さをじぶんに感じたりもする。

 

だって、じぶんは、この日本社会では、ヘテロの、比較的裕福な家庭に育った「男性」に過ぎないからだ。
強いていえば、じぶんは、非正規雇用労働者、とブラックが騒がれる中、雇用関係においては弱者と一般的に言われる立場にいる程度だろう。

 

客観的に見たときに、マジョリティのじぶんが「俺」と言うとき、それは時に傲慢ではないか?
でも、これは伝わらない、それでもどうしてかろうじて使う事ができるかそれは、やはりじぶんが生い立ちのなかで、”じぶんとはいったいなんなのか”、”じぶんは父や母にとってなんなのか”、”じぶんはなんのためにうまれてこなければいけなかったのか”、それをずっと感じてきたからだ。

 

そんなおのれさえさだまらない人間が、どうしてその他の「俺」”たち”を担わなければならないのだろう。
そんな風に思うとき、大森靖子が、どうして”魔法が使えないなら死んでしまいたい”などいえたのだろうと、よくわからなくなる。でもしかたないのかもしれない。女らしさや、性を売り込むことができなければ、それこそほんとうに絶望なのだけれども、そんなことを向こう見ずに酔うことなしに叫ぶ事などできないからだ。それとも、大森靖子は、ほんとうに死ぬ気なのかな。から元気で、なりふりかまわずのたうちまわる彼女なりの仕方なのかな。でも、だったら、なんで「だってもともと自由なんだから。社会と関係なく自由でいればいい。世界は楽しいじゃん、ってずっと思ってる」*1だなんて言ったんだろう。

 

力強さ、か。絶望的に力強くなりたい。けれど、それもまた信仰だろうか。