HPを久しぶりに更新 つらつら書いてみた

 ホームページを更新した。特にFORMの頁をこれまでに自分が書いたものを並べてみた。こう見ると改めて少ないな苦笑  もうすこしがんばらんといかんなあ。(「さらとい」系のページも今後HP内につくってちゃおうかな、と検討中)

 最後の記事が、2019年となると、4年放置していたことになる。放置というか、そもそももうHPも削除しようかな、と思った、んだけど、せっかくだから恥を忍んでアーカイブしておこう、と思った次第である。

  「君ってメンヘラだよね、意外と」

 

 先日、友人にそう言われたのだけれども、確かにそうかもしれない。んで、自分としてもメンタルヘルスがやられていることは自覚しているわけで、んで、10代終わりからの自分の生い立ちを考えるに、いつも何かしら書いてきたわけで、結局それってなんだったのか、それは単に、思考を自由にするためだった、と思う。

 鬱屈としてしまうときというのは、要は、思考がどうどうめぐりだったり、エモーションとないまぜとなって、自分を責めてしまったり、どこにも行く宛てがなくなっている状態で、要は、それは、思考が不自由になっているんじゃなかろうかと。

 夏だけは、時間的余裕があり、いまひたすら本を読んで過ごしているが、そうするとインプット過多になって、思考が重たくなっている、なので、先日も、宛てもなく電車に揺られ、降りたカフェで本を読んで、その街を散歩したり、書を捨てずに街に出てみたりしている。

 だけど考えてみれば、どこにも行かなくても、ここで書くことで、自分の言葉をどこかへ放つことができる、そんな場が実はあったんだなあ、と。

 TWITTERでつぶやく? だけど、140字の枠の中で、スレッドのように言葉を続けるのはめんどくさい、結果、言葉を切っていくことになるわけで。そういう使い分けとしてこの場を、ときどき、気の向くままに使っていこうかな、それでいて自分の生を痕付けていこうかしら、そんな気分の夏、嵐の過ぎる東京にて。

「欲望」の「先天性」/「所与性」をめぐって――『ジェンダー写真論』『欲望会議』

この一年、わたしがじぶんのなかで確認したことは、自分のいま探求したいテーマが「自己」をどう変えていくことができるか、とりわけ自分のセクシャリティーをいかに刷新することができるのか、そういうことである。

 

父とのいざこざもあったのが2018年であったけれど、正直いまはどうでもいい。もしかしたらこのHP上で、blog記事では、家族関係に執着しているような言葉を書き連ねているため、誤解される余地があるが、基本的になぜ家族関係への問いを持っているか、といえば、家族関係から自由になりたいからであり、精神分析が指摘するように、己のセクシャリティーの形成に家族関係が濃厚に影響を残すから、ただそういった視点からに過ぎない。 続きを読む

自分自身の不全から目を逸らしてーーブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』

ブレイディみかこの『子どもたちの階級闘争』を読んだ。きっかけは、いくつかあるが、例えば、最近読んだ記事ではこう評されていた。

 

 最近でこそ「反緊縮」みたいなことを言うリベラル文化人も出てきましたが、断言しますがこれは完全にブレイディみかこさんの影響です。ブレイディみかこが登場しなかったら、リベラルな人たちの口から「反緊縮」なんて言葉が出ることはなかった[1]栗原裕一郎の「平成の論壇:ニューアカの呪縛」(2)https://www.mainichi.co.jp/heisei-history/interview/14.html 

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References

References
1 栗原裕一郎の「平成の論壇:ニューアカの呪縛」(2)https://www.mainichi.co.jp/heisei-history/interview/14.html 

「父」の始まりについて――ドミニク・チャン「「はじめ」と「おわり」の時」に寄せて

わたしは、生を言祝ぐ言説が嫌いだ。それも、自分との連続性の中で、じぶんを価値づけるという結果的な合目的性が見出されるほど、嫌いの度合いが高まる。

 

実存的には「生まれてこない方がよかった」という反出生主義を生きているようなところがあるが、ただじぶん以外の人々、生命全般を視野に入れるや、どちらかというと、中立的である。中立的というのは、決められないという迷い、というよりは、そもそも生れてくる、生命が、自然が、その摂理(法則でもいい)が、死がある、というのは、一個体の価値判断の対象ではない、というよりも、そのような判断がくだせる主体がありうるとすれば、生を超越して、それこそ上からすべてをまなざす神のような超越者しかありえないからだ。

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絶望を糧とする――石原吉郎「オギーダ」

 自殺は敗北である。そのことにかんするかぎり、私は結論をためらわない。だが、敗北とは何か、なんんいたいしての敗北かということになると、私に明確なものはなにもない。

そう始まる石原吉郎の「オギーダ」というエッセイ。

 

自殺を敗北とする石原は、自殺しなかった敗戦後のシベリア時代のおのれを、逆説的にも肯定していると、私は読む。石原は、何度もフランクルの「すなわちもっともよき人々は帰ってこなかった。」(29頁)という有名なフレーズを『石原吉郎セレクション』では引いている。人間的に堕落したじぶんのような人間たちだけが、シベリア抑留を生き抜けた、人間的配慮をすべてを喪失し、ただ生き残ることだけに適応した人間たちだけが、生き残った、そう石原は言うからである。

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伊波普猷の呪縛 2017年11月 沖縄滞在メモ

ここに収められた「起源と反復――伊波普猷について」は、羽田から那覇へ向かう飛行機の中、滞在一泊目の夜に泊まった読谷村のホテルで、読了した。

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明治維新期において「一般意志」はどこに見出されうるか――橋川文三『ナショナリズム』『西郷隆盛紀行』

『Hapax,6,破壊』所収の友常勉の「よりより<生>とアジア主義」に、1960年代後半の山谷の暴動を、アジア主義というタイトル内の言葉にあるように、近現代日本史の一視覚と絡めながら、論じたものである。

 

暴動と蜂起にかかわる議論においてアジア主義を参照する理由は、東アジアの地政学的な時間と空間んという準拠枠に位置付けられた近現代日本において、それが蜂起と革命の倫理的真理を規定する条件だからである。(同書、173頁)

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生産様式ではなく、生活様式へ――西田正規『人類史のなかの定住革命』

2016年秋口に、本書を読んだ。知人からの評価が高かったこと、また以前読んだ國分功一朗さんの本での紹介が興味深かったこと、それゆえ積読の山から掘り出した。

 

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