ドローンの眼


「【Drone Japan】4K 鬼怒川温泉 廃墟群- ドローン空撮, 栃木県 -Kinugawa Onsen Remains, Tochigi, Japan-DJI Mavic pro」の動画を見て、考える。

廃墟を、ゆっくりと見下げ、見上げ、そうするうちに、地下を流れるかのような緑の鬼怒川が見いだされ、気づくとうっとりするくらい、そこに美しさを感じる。

美しさを感じる主体は、もちろんyoutubeを見る、この「私」であり、冷静に考えれば、撮影の眼と、美しさを感じている動画を見る「私」は、重ならない。

しかし、この動画がほかの動画と違うのは、撮影の眼と動画見る「私」とが一体となって、眼そのものとして映像を見つめさせることにある。ほかの動画をみるとき「私」は、その画面に映るなにがしかの「表象」を見ることができる。しかし、このドローンの映像は、表象と表象を見る主体を混濁させる。

 

では、そのとき一体となった主体――ドローンの眼と見る私との重なり――は一体どんな主体なのか。 一見すると機械の眼であり、技術の眼、つまりはグーグルアースや地図を見るときと同様の視点であるかのように思われるが、見ていて気付くのは、ここには感性的なものを見出すことができる。それはたとえるなら、タケコプターをつけて、廃墟を見て回る人間の視線だ。無意識にこの視点に同一化できるとき、起きているのは、のび太が初めてタケコプターをつけて、いうなれば、未来の道具が可能にした、現在を過去化する、まなざしの経験だろう。

 

このドローンという技術が何をしているかといえば、だから「廃墟」をとっているのではなく、「廃墟」を作り出しているということだ。現在を強烈なまでに過去化するということなのだ。私たちは、時間を、客観的道具(時計や様々な記憶装置 写真などなど)を通して、創造し続ける。だから、ドローンもまた、同様にして、それまで”ただそこにある”(現在時)ものを”もはや輝きがなくなったもの”(廃墟としての過去)を作り出すのだろう。おそらく

 

 

 

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