「父」の始まりについて――ドミニク・チャン「「はじめ」と「おわり」の時」に寄せて


わたしは、生を言祝ぐ言説が嫌いだ。それも、自分との連続性の中で、じぶんを価値づけるという結果的な合目的性が見出されるほど、嫌いの度合いが高まる。

 

実存的には「生まれてこない方がよかった」という反出生主義を生きているようなところがあるが、ただじぶん以外の人々、生命全般を視野に入れるや、どちらかというと、中立的である。中立的というのは、決められないという迷い、というよりは、そもそも生れてくる、生命が、自然が、その摂理(法則でもいい)が、死がある、というのは、一個体の価値判断の対象ではない、というよりも、そのような判断がくだせる主体がありうるとすれば、生を超越して、それこそ上からすべてをまなざす神のような超越者しかありえないからだ。

わたしが生まれてきたのは、偶然である。この身体とこの「わたし」との結びつきは、不思議以外の何物でもない。そして、どっぷりとこの世界に投げ出されている(実存主義のワードを使ってみた)わけだ。

 

ただ、そこにあるだけである、にもかかわらず、自分の生を、いまいったような広い自然全体に結びつけるならまだしも、まるで自分の生の意味連関を過信するような議論は、だから大っ嫌いなのだ。

 

ドミニク・チャンというマルチカルチュラルを言語的な面で体現したような人が、「「はじめ」と「おわり」の時」というのを書いているのをRTを通して知る。そしてそこには、彼の娘の生誕に関するこんな記述が見出された。

 

娘が母胎の外へと這いずり出て、最初の呼吸をおこないながら産声を上げる準備をしているその刹那、自分の全存在がその風景のなかへと融けこんでいく感触に襲われた。わたしは今に至るまで、過去に体験してきた数多の優れた芸術表現や哲学概念と比べても、この時ほど強度のある美的体験を経験したことがない。
鈍い灰色の光彩に包まれていたその小さな身体が、はじめて呼吸をした次の瞬間、一度に赤みを帯び、生命の色に染まる。直後に部屋中に響き渡る産声とともに、原初の「はじまり」が世界に顕現する特異点だ。
彼女の身体がはじめて自律的に作動したその時、わたしの中からあらゆる言葉が喪われ、いつかおとずれる自分の死が完全に予祝されたように感じた。自分という円が一度閉じて、その轍を小さな新しい輪が回り始める感覚。自分が生まれたときの光景は覚えてはいないが、子どもという生物学的複製の誕生を観察することを通して、はじめて自分の生の成り立ちを実感できた気もした。
それから現在に至るまでの5年ものあいだ、わたしはこの奇妙な円環のような時間感覚の甘美さに隷属してきた。まだ一人では生きていけない彼女の成長をいつも側で見守ることによって、わたしの生きる意味も無条件に保障されてきたのだ。わたしはその間、新たな言葉を探ることを必要としなかった。(太字、blog筆者)

 羊膜に覆われた赤子を「鈍い灰色の光彩に包まれていたその小さな身体」と言い、ちりばめられた「時間感覚の甘美さ」だの、「刹那」「風景に融けこんでいく感触に襲われた」だの、こうした麗しい文体の読後は、さぞ心地よいものだろう、そう思った読み始めの期待は、すぐさま裏切られた。滲み出て来る違和感が汗のように噴出してしまったからだ。

 

ドゥルーズやら、「現代思想」的な思想家哲学者を引き合いに出すこの男は、なんてばかなことを言っているんだ。

 

原初の「はじまり」は、子宮外に出され、おぎゃー と言ったときなんかであるはずがない。

 

私にも子供がいるが、子どもの存在をalienなものとして感覚的に理解したのは、いわゆる「誕生日」なんかではない。 映画の『エイリアン』で、リプリーの胎内に宿り、そこから突き破って出てきた瞬間に、エイリアンが誕生した、だなんて誰も信じない。むしろ胎内で、お腹の皮膚を、その子が蹴ったりする、ぽこぽことうごめく、その瞬間ではないか。

 

産婦人科でもらってくるエコー写真なんてのは、ぱっとしない。しかし、膨れ上がるお腹がぴこぴこと動いているその様、そこにかろうじて、想像的「起点」を感じられる程度だ。

 

デリダならなんていうだろうか、たしかかつてどこかに彼はこう書いていたはずだ。自分の子どもの存在が喜ばしいのは、自分との連続性ではなく、その「他者」性によってである、つまりここでの文脈で言えば、そのalienな様によってである、と(文献は見つけたら記します)。

 

 

改めて、以前の記事でも引用したデズモンド・モリスの言葉を引いておこう。

 

新たに生まれ出た赤ん坊は、決して幸せそうな笑顔を向けはしない。まるで手ひどい拷問の犠牲者のような硬く引きつった表情をしている。気もそぞろに待ち構えている親達にとっては、この上なく甘美な音楽に聴こえる赤ん坊の泣き声も、本当は親密なボディタッチを奪われてしまったことからくる滅茶苦茶なパニック状態の気も狂わんばかりの叫び声に他ならないのである。16頁

 

おそらく、(というよりはわたしがただ信じているだけのことであるが)子ども的視点からすれば、子宮の外に投げ出されるということは、”手ひどい拷問”で、気が狂わんばかりに叫び声をあげざるをえない出来事なのだ。 子宮の外という外界の、最初の経験、それは、叫びだ。

 

もしかしたらドミニク・チャンをこんな風に論難するのは、不当なことかもしれない。なぜならば、ドミニク・チャンが語る「始まり」と「終わり」とは、こうしてみれば、「父親」のはじまりの話だからだ。自分の一実存を、「父」として、血縁の系譜に、おのが娘の存在を通して位置づける、その感動を語っているのだから。

 

 

 

 

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