内面的に閉ざさせられて――『リリイ・シュシュのすべて』について


絶望のなかで、傷ましい叫び声を上げる、傷ましい歌をさえずる、そんな意味がこめられているのかはわからないし、読んでもいないじぶんが、そんなことをあてずっぽうに書くこと自体がナンセンスかもしれない。なんのことを話しているかといえば、それは、2015年6月に出版された、元少年Aによる『絶歌』という本についてである。

少年Aとは、いわゆる1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人のことで、その彼が被害者の遺族の一人の反対をおしきって(あるいは了承をとらなかったから?)当時の事件を振り返りながら、その後の自分について書いたのが本書であるという。

 

 

この事件に関心を持ち始めたきっかけのひとつが、大塚英志の『「おたく」の精神史』であるのは書いておかねばならないが(それについては書評?をupしている「大塚英志『「おたく」の精神史』」)、もうひとつが、ここ数年、じぶん自身を振り返りながら、じぶんを歴史の中に位置づけようという欲望を持ち続けていて、あらためて、自分がどんな子どもだったのか、考えたいからというのが一番のきっかけに思われる。1997年、僕はあのとき12歳だった。

 

 

少年Aが自分は「典型的なナインティーンキッド(90年代に典型的な子ども)」だったと述べているが、だとしたら、僕はいったいなんだろうか。90年代に僕はいったいどんな子どもだったのだろうか。僕もまた“ナインティーンキッド”だったんだろうか。

 

 

ナインティーンキッドとやらがどんな特質をもった子供であるかは知らない。ただ、漠然と、90年代、とりわけ90年代末の少年の心情を、岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』という映画作品もまた表しているように思えて、最近、改めて、この作品を見直してみた。

 

 

 

だから、以下で『リリイ・シュシュのすべて』(以下『リリイ・シュシュ』と略記)について考えるとしても、それは、少年Aの事件との関連が常にあったうえだということ、バイアスがかかっていることは、言って置かねばならないと思う。

 

“ナインテイーンキッド”の心性を表した90年代の作品に違いない、という考えは、先日TUTAYAで『リリイ・シュシュ』を手に取った瞬間にすぐさま裏切られた。『リリイ・シュシュ』が公開されたのは2001年10月6日だったからだ。このとき、僕は16歳の高校一年生だったけれど、僕が『リリイ・シュシュ』をはじめて見たのは、翌年以降だった。これは間違いない。高校二年のとき、リョーケン(友人)に、忍成修吾が草っぱらでCDを聞いている光景がめちゃくちゃカッコイイと聴いて、この映画を借りて見たからだ。

 

 

確かに当てが外れたが、しかしながら、90年代の作品ではないからといって、ナインティーンキッドを表していないことにはならないし、僕自身が2000年代はじめ依然として青年期まっただ中だったことを考えれば、ナインティーンキッドの心性を表していると主張したところで、なんら問題があるわけではないだろう。

 

 

岩井俊二というと、1995年の『打ち上げ花火、下から見るか?横からみるか?』『Loveletter』や1996年『PICNIC』『スワロウテイル』、2004年には『花とアリス』を作っているけれど、こうした彼の作品は、かなり“オシャレ”な男子女子に受けるものだったと思う。そんな印象が強い。リョーケン自身もクラスでもめちゃくちゃオシャレなやつで、あとちなみに僕もリョーケンも都内の大学付属の私立高校だった。

 

「オシャレ」というのは、今の僕からすると、その特徴は、美的な自己装飾の才能と「軽薄さ」を兼ね揃えるひとに形容する言葉であり、岩井俊二の映画が「オシャレ」受けしていると印象を持っているのは、岩井俊二の映画を賛美した僕のこれまでの友人たち皆が、批評的視座を一切もっていないし、ただ賛美の理由が映像と音楽の心地よさ、美しさ、カッコよさ、それだけだったからだ。苛立ちや、憤りといった負の感情からは、「オシャレ」は程遠いいのだ。もっといえば、「オシャレ」とは、マイノリティーの条件たり得るだろうか。マジョリティーを形作っている権力要素の一つではないのか。多分に漏れず、僕の通った高校でも、学校内でのヒエラルキーを形作る一つの重要な要素は、オシャレであることだった。

 

 

僕の周囲のそんな読者層(視聴者?)を考えると『リリイ・シュシュ』だけで、90年代ないし僕の青年期を考えるには、不十全すぎるし、発表された時期は2003年以降になるが古谷実の『シガテラ』のような漫画作品等々、人間の激烈な膿を垣間見せる作品とともに論じた方が、90年代に青年期をくぐったひとの心情に迫りやすいのかもしれない。

 

 

 

 

ただ、それでも岩井俊二の中で唯一とも言っていいほどの毒々しさを表したのが『リリイ・シュシュ』だったことは想起すべきであるし、むしろこの作品をどう評するかが、オシャレの軽薄さを浮きだたせる踏絵のような役割を果たすと思われるのだ。

 

 

 

ネタバレをすると、当初仲良かった4,5人のグループのうち、優等生っぽかった忍成演じる星野が、中学2年生の夏を境に、豹変して、いじめ等を行う、グループのボスのようになっていくのを描いたのがこの作品で、一応主人公自体は、星野にいじめられることになる市原隼人演じる蓮見である。蓮見は、自分はいじめられオナニーをするのを強要されたり、自分を慕う蒼井優演じる津田が星野に援助交際を強要されたり、クラスのマドンナ的優等生の久野さんが、レイプの末に、坊主頭になっていくように、周囲も変質していく中で、唯一心のよりどころにしていたのが、リリイ・シュシュというバンドで、そのホームページを立ち上げ、そこでの出会ったハンドルネーム青猫との交流に、現実逃避をしていくのだ。しかし、最後、現実逃避の憩いの存在青猫と、リリイのライブで、いわゆるオフ会じみたことをしようとして、青猫が星野であったことをしり、星野を殺すという話。

 

 

 

蓮見のこの解決策を簡単に言えば、現実逃避をしていて、想像上の交流の美化された存在が、じぶんを普段から貶める星野だったことに耐えられず、その星野という現実の存在を抹消することで、かろうじて想像上の存在である青猫を救い出したということだろう。

 

 

しかし、Wikipediaの『リリイ・シュシュ』を見てみて気づいたが、実際リリイ・シュシュというグループを蓮見に教えたのは、星野だったのである。星野の欲望の対象を、蓮見は無意識の中で、おのれの欲望の対象としていたのだ。リリイ・シュシュというグループを教えたのは、たぶん、星野がまだ蓮見と仲が良かったときのことで、だから、蓮見は、仲の良かったあのころの星野と欲望の共有という仕方で依然としてつながろうとしていたともいえる。ネットに逃走して青猫と出会うとしてもそれは、あくまで星野のそもそもの代わりであったに過ぎない。星野の代わりであった存在が、その星野自身と同一性を持っているということ、それに蓮見は耐えられなかったのだろう。だから、彼が最後に星野を殺すのは筋が通っている。じぶんをいじめる星野は、“あの星野”ではないのだ。その星野に、“あの星野”の代わりである青猫までも奪われると、おそらく蓮見は感じてしまったのだろう。本当にこのあたり、愚かな解決策としか言いようがない。“あの星野”は実は失われたわけではない、だからこそ、“青猫”としてネット上に現れたに過ぎないのだ。愚かな解決策、なぜならば、依然としてもうひとりの星野を信じている蓮見にしか、星野の人格の分裂を救うひとは、物語上にはいないからだ。その唯一の頼みの綱が、ここに殺人によって切れてしまったのだから。

 

 

 

こういう言い方は、あまりに星野の側にえこひいきしているように思えるかもしれない。しかし、むしろかなり、意図的に蓮見の心情を読み取ろうと努力した結果がそうなったともいえる。

 

 

 

確かに、僕は、星野が草っぱらで音楽を聴くシーンについての、リョーケンの語ったことの印象があまりに強く、だから、見返すまで、てっきり主人公はいじめやレイプを含む犯罪行為を行う加害者の星野であると思っていた。けれども、かといって主人公が蓮見とは到底思うことのできない作品なのだ。

 

 

 

まずもって、作品の構成は時間軸が前後していて、まず星野が蓮見をいじめているところから始まり、そのあとで、星野と蓮見が仲良かったときにいったん戻るようになっている。すると、当然、読者は、あれ 星野と蓮見は仲良しだったのか。じゃあどうして星野がいじめ、蓮見らがいじめられるようになったのか、そう考えながら見ることになる。すると、当然視点は、蓮見側によりそうようにはならない。むしろ、出話が、蓮見がオナニーを皆の前で強要されるシーンであり、そのときのどんなに苦しかったのか、それを映像が移すこともないからだ。つまり、どれほどいじめられていても、またこれは蓮見に限ったことではなく被害者全員に言えることだが、残虐な行為をされたときの、苦しみの感情や嗚咽が、まったくこの作品では描かれないのだ。たとえば、久野さんがレイプされるとき、確かに制止を求める場面は当然描かれるも、結局その痛ましさの表現は、坊主になる、という髪の毛をなくす、という象徴的なしぐさのみなのだ。これにとどまらず、全般的に、痛ましさの表現は、象徴的なシーンのちりばめの中に収れんし、内的な感情の吐露は、象徴的なものにすべて回収され尽くしているのだ。

 

 

 

 

象徴的なものには描けない痛ましい感情の表現だけが、ある対象への同一化を支えるし、それなくしては、蓮見への自己投影も不可能なのだ。他方、加害者の星野の苦悩もまた可視化されないが、それは加害自体に苦悩はなく、加害は彼の内奥の苦悩の表現でしかない以上、すると、どうしても、知的な問いが常に頭をめぐることになる。彼はあんなことをして、いったい内側になにを抱えているのか?と。

 

 

 

解決策の愚かさは置いたとして、仮に単純化して、想像上の、ネットでの交流が虚飾で、それが虚飾に過ぎなかった、それを青猫=星野 という事実によって知ったとして、その虚飾もろとも殺すことで葬り去ったとして、単に、虚構のものをよりも結局は現実が重要というメッセージにしかならない。そのうえ、どう考えても、リリイ・シュシュというグループが、星野や蓮見たちの現実にかかわるのが、ネットを通してでしかない以上、もっと星野や蓮見といった登場人物に、読者が感情移入できるようにする必要がある。そうでないと、幻想の破綻=現実の勝利 という筋書きが見られるとしても、その勝利や幻滅の感情さえも、読者は共有することはできないのだ。しかし、感情移入不可能な物語、各登場人物に内面が閉ざされているのにもかかわらず、それでいて、甘美な陶酔的な小林武の音楽が流されてしまうちぐはぐな物語、それが『リリイ・シュシュのすべて』ではなかったか。

 

 

 

ナインティーンキッドの心情を読み取ろうとして見た『リリイ・シュシュ』だったけれども、その当てははずれてしまった。青年期の少年少女を描きながら、その少女たちの内面を閉じ込めた作品、それが『リリイ・シュシュ』だったといえる。という結論は、とはいえ、考えてみると、反転して僕に次の事柄を提起する。もしかしたら、それこそを岩井俊二は描いていたのではないか、と。(僕の問題意識に引き寄せていえば)ナインティーンキッドとは、要するに、内面が閉ざされていて、周囲からは読み取ることのできない存在だということ、それを岩井は言いたかったのではないか。

 

 

 

だとすると、悲しいことだ。僕たちナインティーンキッドは、依然として放置されて続けている。

 

 

 

お前たちが何を感じて、何を思っているかなんて、おれたちにはわかりやしないのだ

 

まるでこの映画からはそんな声が聴こえてしまうのだから。

 

内面的に閉ざさせられて――『リリイ・シュシュのすべて』について” に1件のフィードバックがあります

  1. stone-i

    重い映画ですね。ウィキペディアでは、群馬県太田市だけど、群馬県邑楽郡邑楽町も撮影しています。

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