デズモンド・モリスについて


購読しているsynodos+αのno.182号に、山本ぽてとさんの「おっぱいが重たい(後編)」というエッセイがあり、それを読んで少々驚いた。

 

エッセイのとっかかりは、京都新聞の公式twitterが2015年1/12にツイートした「おっぱいは誰のものか?」というツイートで、これをめぐる炎上話である。

 

驚いたのは、ぽてとさんのエッセイから、「おっぱいは誰のもの? そんなもの自分のものに決まってるじゃん。男のために進化したんだなんていう男性優位の異性愛主義の投影はやめてくれ」という主張があるからでは当然ない。男性の性的視線に距離をとって語りながらも、ぽてとさんが、なんだかんだ男女のわいだんをネタ化して、歓心を買ったエッセイを書いていたからでもない。

 

ただ、数年前に読んで、なるほど と考えるところがあった、デズモンド・モリス(『裸のサル』)の名があり、「おっぱい男のために進化したんだ」説の端緒とされていたから、にわかに驚いた、ただそれだけの話である。

 

特に、なんとなく、じぶんがモリスを読んできた印象からすると、モリス=男性優位論者のだめ男 的な文脈、それも 女性の胸をすべからく男のために進化してきたものとするしょーもない男どもの教祖的な扱いは、ちょっと行き過ぎているし、少々そうしたモリス像はゆがんでいるよ、とだけ指摘しておきたい。

 

たしかに、『裸のサル』でモリスは、裸のサル(=人間)のメスの胸は、直立歩行して見えずらくなった、臀部の模倣として進化した性的象徴である、との議論を展開している。もっといえば、なんで化粧をして、たとえば唇を紅潮させて、ぷるぷるにふくらませて、つややかにするのか、それは、性的興奮時の陰部を表すためである、というような議論さえある。こうしたヴァギナの模倣としての唇や、ヒップの模倣としての胸という考え方は、結局こうした象徴に着目する議論は、誰に対して「見せているのか」ということが問題にならざるを得ないので、「男のため」となって、結果、男性優位的発想と読まれるのは当然である。

 

でも、じぶんがモリスを面白く感じたのは、象徴主義的・視覚重視のモリスのみならず、それでいて、彼は触覚的議論、つまりはふれることがどれほど重要かを積極的に論じている点である。

 

 

どうして、赤子は、母親のお腹から出て、現実の世界に出てくるとき、おぎゃーと泣き喚くのか。子どもの誕生と言うのは、たいてい喜びの出来事であり、赤子のおぎゃーという叫び声、それもまた喜ばしい出来事のそれこそ象徴でさえあるのが一般である。けれども、『ふれあい』でのモリスからすれば、それは子どもの実感とはかけ離れている。と言うのも・・・

 

新たに生まれ出た赤ん坊は、決して幸せそうな笑顔を向けはしない。まるで手ひどい拷問の犠牲者のような硬く引きつった表情をしている。気もそぞろに待ち構えている親達にとっては、この上なく甘美な音楽に聴こえる赤ん坊の泣き声も、本当は親密なボディタッチを奪われてしまったことからくる滅茶苦茶なパニック状態の気も狂わんばかりの叫び声に他ならないのである。16頁

 

この引用箇所は、使っている用語からして、まるでジョルジュ・バタイユが書いているかのような印象さえ受ける。

 

『宗教の理論』でのバタイユによれば、動物とは、「世界の内に水の中に水があるように存在している」存在であり、これがintimacy/intimité内奥性の定義である。intimate内奥な という語は、モリスがここで「親密なボディタッチ」と語るときの「親密な」の語と同じでさえあるのだ。子宮のなかの水の中に生を受けた動物が、突然、この人間的現実の世界に放り出される経験、それが誕生なのである。

 

バタイユは、この親密性/内奥性 への回帰こそが、真に人間的振る舞いであり、エロティシズムの核心だというわけだけれども、モリスの『ふれあい』第九章の見出しもまた「親密性への回帰」と、両者は呼応している。

 

どうしてひとは、空港で、久しぶりの再会に歓喜して恋人や近親者を出迎えるとき、抱き締めるのか、抱擁するのか。どうしてひとは、拍手をするのか。それは、互いに包み込みあい、この親密性に帰るからである。拍手とは、抱きしめることの挫折である。ほんとうは抱きしめたいけれど、距離があるから、手をクラップするに留める。じゃあなぜ抱きしめるのか、それはこの親密な状態を作り出すためである。

 

 

視覚というのは、距離を前提として、ほんとうに相手に近ずきすぎると、視覚は失われて、見えなくなる。性的象徴としての乳房がまさにそれで、ほんとうに胸に近づくとき、性的象徴の意義が弱まっていく。モリスがなにより『ふれあい』で強調するのは、視覚が失われうるような直接的なふれあいであり、そう考えると、モリスの目線は、必ずしも象徴主義的ではなくなるだろう。

 

 

 

モリスはただ身体的特徴を象徴に還元していく面もありながらも、このように親密性を基盤として、拍手等の社会的行動を解釈し、親密性に還元していく側面も持ち合わせていて、じぶんにとってそのあたりの議論の仕方がモリスの魅力に思える。

 

ひとまずモリスの読書メモとして。

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  1. ピンバック: 「父」の始まりについて――ドミニク・チャン「「はじめ」と「おわり」の時」に寄せて

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