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宇都宮直子『渇愛』

宇都宮直子著『渇愛』を読んだ。きっかけは、積読チャンネルの同書の紹介の動画を見たことだ。

 

 本書の中でえぐられるような感触を得たのは、以下の部分だ。それは「頂き女子」の「マニュアル」の最後の部分であるという。

《わたしは今まではおぢ側の人間でした、好きになった男の人からお金を要求されては払って、捨てられて、を繰り返してました。そんな私がもっとこんな風にしてくれてたらもっとお金も渡したし、恨まなかったし、幸せだった。という経験を裏返しにしたのが頂き女子になっています。今まで私から搾取した男たちはクソなので、「おっまえのことなんてどうでもいい」とか「泣いてもなんとも思わないから」とかお金渡さなきゃよかったと思うようなやり口ばかりでした。なので私はおぢにたいして【最後までお金を渡して幸せにしてあげて良かった】と思わせる努力を惜しみません1

 このマニュアルを用いたものの、最後に「おぢ」へのアフターケア(渡邊真衣(「りりちゃん」の本名)が「マニュアル」で重要視していた)を怠ったがために逮捕された女性が出たことが、渡邊真衣が逮捕されるきっかけであったが、裏を返せば、この太字ハイライトをした部分、”最後までお金を渡して幸せにしてあげて良かったと思わせる努力”こそが、渡邊真衣が「りりちゃん」として生きる上で、賭けていた部分だと言えるだろう。

  この個所を普通に読めば、ただ逮捕されないために必要な指南、として解釈されうるが、ここで渡邊真衣が述べているのは、自分がホストに「欲望」していたが得られなかった「欲望の対象」となること、それを自らは「対象」として生きること、それが「りりちゃん」として生きることである、ということなのである。

 本書の中で渡邊真衣は、最後まで「りりちゃん」として生きることをやめなかった。というよりは、やめられなかった、なぜならば、それ以外に彼女が生きられる場所がなかったし、それを創ろうという意思を持つことができなかったからだろう。

 本書読了後、ネット検索する中で出会ったのが、志田雅美の「女性の主体性に関する一考察—―「ホストクラブ」という場から」という論文である。そこでは、「ホストクラブ」ではホストと客が何を賭け、何を売買しているのか、極めて本質的に思える指摘がされていた。

ホストは"本来"の自分、すなわち自分のアイデンティティを"捨て"、女性たちはそのことに対して金銭を支払い、自らの理想のアイデンティティの獲得を望んでいると結論づけられる。つまり、ホストクラブという場において、客とホストはアイデンティティを売買していると考えることができる。

 ホストは、本来の自分であれば、生理的に嫌な相手であっても、「自分を捨てどのような相手であっても受容すること」を目指し、その対価としてお金を求め、対して客の女性は、お金を出す限りにおいてそこで受容される「自己」がある。

 渡邊真衣がホストに狂ったのは、お金を出す限りにおいて受容される自らのアイデンティティ、それしかこの世界に、この社会に安心して棲まう「自己」がないからである。渡邊真衣がマニュアルに書いているのは、その儚い「自己」が担当(ホスト)との関係が切れて失われた後に、小さな「自己」の死の後であっても、”してあげてよかった”というある種の見返りがなかった贈与への満足が得られること、それを求めたということだ。

 アフターケアとは、例えるなら、死後の葬儀のようなものだろう。その「自己」の死が多くの人にきちんと弔われること、それが渡邊真衣がよりどころにした「自己」の供養となる。

 本書の優れている点は、著者の宇都宮直子が前半で「りりちゃん」に入れあげてしまったものの、後半部できちんと渡邊真衣その人に迫っていくところだ。

 渡邊真衣は、最後まで被害者男性へのきちんとした謝罪や反省をすることができていない、それはあくまで彼女が「りりちゃん」としての「自己」に執着しているがためである。そこにしか彼女が自らの生きている価値を見いだせていないことにある。反転させれば、彼女が真に自分のしたことと向き合うためには、「りりちゃん」を対象化し、「りりちゃん」とは違う「自己」を確立してはじめてできることだと思う。

 この渡邊真衣の「りりちゃん」への執着が胸を打つ?のは、象徴的な「自己」像とは別のところで、「自己自身」を確立することの難しさ、確立自体がそうも簡単にできるものなのか、という点だろう。少なくとも私自身にそれができているとも思っていない。だからこそ、渡邊真衣の問題が私に響いてくる。

 ひとは、いったい「社長」だとか家族で言えば「父親」「母親」等の役割や肩書とは別のところで、「自己」をどうやって担保していくことができるのだろうか。誰かに承認される「自己」を目指し、その「自己」に自らを一体化させていくこと、それは渡邊真衣以外の誰もがやっていることだ。もちろんその誰もがは、渡邊真衣とは違って、「詐欺」行為、犯罪行為によってその「自己」を作っていくわけではないのは言うまでもない。

 では、社会的にも承認されない、誰でもない、朝ただ目を覚まして息を吸うこの自分自身をどう受容していくのか、それは結局「人間」的というよりは動物的、生物的な自己であるというならば、「受容」や価値を置くような何かではないということかもしれない。

 もちろん、世間的な処世術としては、犯罪ではない仕方で、反社会的でもない仕方で、「自己実現」をしていきましょう、ということであり、それがこの「近代社会」の習わしであり、新自由主義のこの社会では、その「自己実現」で個人として稼げるひとになることが求められるわけである。

 でも、そうではない、別の仕方があるし、それが真に近代社会と向き合うことでもあり、私自身が苦慮しているところなのだ。

  1. 宇都宮直子『渇愛 頂き女子りりちゃん』小学館、2025年、154頁。 ↩︎