足元の耳で聴く、貝の歌――金子光晴、東南アジア的土着性、存在感情


「題名のない残念会」[1]http://www.ustream.tv/recorded/53750444という友人が主催のラジオに参加させてもらい、金子光晴について少し語った。そこでは緊張と、緊張をはぐらかすためのお酒で、うまく言いたい事をいえなかったり、終わってすぐ気付くちょっとした間違いもあったこともあって、さらに後から言いたかった事がより整理されてきたり等々あり、改めて文章化してみることにした。

そこで紹介したのは、次の二つの詩だ。(ただし、「貝」も本来旧漢字であり、しかし私のパソコンでは打てなかった。いくつかそういう箇所はあるがご容赦いただきたい)

貝の歌(『鬼の児の唄』(第二次大戦中に書かれ、1949年末刊行)より)

貝が貝をうみ

灰ばんだ海は

ぬか袋のやうにふくらむ。

貝がらが

貝がらに、

かぎりなく重なる

ざくざくな道。

空は、その小さな殻がひらく

まづしげな菫色。

ああ、なんといふもの淋しげなけしきだ――。

さしくる潮は

殻のうへをわたり

しうんと湖水は吸はれ

はかなくのこる泡、泡、泡、

なんといふむなしいそのくり返し。

竹とんぼは落ち、

一国の虚栄は

老薔薇色の重油とともに

漂流し去つた!

だが、貝どもはのこる。

貝が、貝をうみ

はてしもしらず。

夜ごと

泥のなかの貝は

二枚の貝をひらいて

きうと泣く。

ねむさうな目をして

月は、

泥と遊ぶ。

雨(『蛾』より)

むすぼれた雨が

しづかに林に湧き

苔みどりの湖に

白い繭をかける。

吸入器の噴霧のやうに

いがらつぽい

毒つぽい雨。

ぱらぱらこぼれてくる

葉のしづく。

葉うらにびつしり

貼りついている蛾の卵。

青虫を餌食にして、

草や木は青々とひろがる。

裳(も)のやうに。

袖のやうに。

ぬれた草を倒して

ふみぬいたパンツのやうに

蛇が這う。

パンツをぬぐ腰のやうに。

あまり長雨がつづくので

僕のこころは水びたしだ。

そらにも大きな

壁じみができた。

浮袋よ。どこかへ浮かびあがらせろ。

毎日、頭をおさへつける

こんな周囲から、

あつちもこっちも浮腫だらけだぜ。

生きているといふことは何ですか。先生。

君、それは何かでふくれてることだよ。

では、わるいことなんですか。

ふん。まあ、うつたうしいことさね。

ぬれた障子。

しとつた畳に座つて僕の魂は

生きていればこの偏執と食欲と、

青かび、黒かびに蔽はれている。

こんな日にはまつたく

男だって懐胎しますよ。

きこえないのか。この胎動が

罪の児がうごいているのが。

(昭和20年7月)

まず、「貝の歌」についてだが、これは『鬼の児の唄』という1949年刊行の詩集に収められた詩のひとつであるが、書かれたのは、第二次世界大戦中。ただ、ラジオでは、仏領インドシナに滞在したときではないか、と述べたけれども、実は、そうではない可能性もなくもない。なので、『鬼の児の唄』に収められた詩の書かれた年がそれぞればらばらである以上、なぜこれが仏領インドシナと特定できたのか、触れておかねばならない。実際100%仏領インドシナだと言い切ることはできない。

実際、「貝の歌」のすぐ前の詩は、「血」であり、これまた描かれているのは海である。しかし、その詩の終わりには「7/10 サイパン玉砕の報に」と書いてあり、サイパン島が陥落したのが1994年であることを考えれば、日付が記されていない「貝の歌」が同じくサイパン島を念頭において書かれた可能性だって否定はできない。  しかし、最初私が読んだかぎりでは、仏領インドシナだと思った。なぜなら、「貝の歌」が登場する前の詩には、どれも日付が必ず明記されているが、最初から読んでいって初めて日付が明記されていないのが「貝の歌」であり、そうすると、“ではどこで書いたのか”という問いを持ちながら、次の詩「風景」を読むことになる。で、「風景」の終わりには、「昭和17年(1942年)9月」と明記してあり、その上、「風景」でもまた海が語られ、「菫色」が言及されていて、普通に読むと、「貝の歌」のイメージと結びついていき、すると、当然「貝の歌」も1942年9月に書かれたと思うことになる。  そして、全集15巻の「年譜」によると、1942年、1月、国際文化振興会の属託として、彼の妻森光千代に日本夫人文化使節招誘がきて、光晴も仏印に飛んでいる。そして、帰国後と思しき7月に「海」に発表し、9月に「風景」を創作したと記されている。よって、「風景」同様、「貝の歌」も、仏印と考えるのが妥当だ。しかし、「風景」というタイトルの詩は、『落下傘』に、それも「海」とともに収められていて、では1942年9月に書いたのはこちらの「風景」かと思わなくもない。100%言い切れないと言ったのはその意味でである。しかし、そちらには年月が書かれていない。なので、仏印と判断するのが妥当だろうと。

とはいえ、海の場所が仏印なのか、あるいは日本のどこかなのか等々、その海の場所の特定が「貝の歌」の詩をとおして重要かどうかといえば、そうではないだろう。むしろこの「貝の歌」の入った『鬼の児の歌』、そして『鮫』や『落下傘』、『蛾』、『女たちへのエレジー』に納められた詩を、それら全体がかもしだすイメージとして把握することが重要である。しかし、そう考えたときに、同じく海や、あるいは「雨」も含めて、散々金子が水にまつわる詩を書いているとき、そこで喚起される土壌が今度は仏印という局所的なものではない仕方で、浮かび上がってくるだろう。それは、東南アジア的風土、東南アジア的土着性といっていいものだ。  ラジオで、つい雨の経験や海辺での経験と言うのはある種の「普遍性がある」と言ってしまったが、むしろ、アジアに土着する人間どもにとっての普遍性と言うのが適切だ。  ところで、私はアメリカのミシガン州に夏から冬にかけて滞在したことがある。そのとき、私が雨が降ってきて、とっさに日本から持ってきた傘を差して外へ出かけ、そして帰ってきたときだ。それを見かけた同じ寮の友人のアンドリューは、私にこう言ったのが思い出される。

なあ, 日本人はどうして傘を差すんだ?

この問いに困惑して、思わず私はアンドリューに、「いや、むしろなんでアメリカ人はかさをささないのか」ときいたことがある。すると、

It’s cool.

というふざけた答えが返ってきてさらに困惑したことがある。つまり、同じ雨でも、カナダにほど近い内陸部のアメリカに位置するミシガン州では、小雨程度にしか雨は降らないのに対して、日本や、そして東南アジア圏では必ず雨季と称されるほどの、大降りの雨が降る。だから同じ雨でもその雨の意味やそれへの対応から植え付けられた動作や習慣は異なって当然なのだ。ミシガンに住む彼らにとって小雨程度雨は、パーカーのフードでしのぐに限る。それがcoolなのだ。けれども、梅雨を経験する私や金子にとっては、雨は、当然、ときにむしむしと感じさせもすれば、突然襲ってきて、交通機関は麻痺し、足元はびちゃびちゃになって、何もする気が起きないといった(実際先週、つまりは2014年10月頭の台風でそうなったように)感慨に陥らせるほどのものだ。傘はさして当然である。 遊びで書いた指文字さえもすぐにその波で覆い尽くしてしまう、いわば海岸の波にしても、雨同様、どこかここではひとを受難の経験にいざなう。金子のこのふたつの詩からは、そうした雨や波という、ひとつの受難への諦めのような感慨が、それが逆に露にする生命の充溢や繁茂の念とともに浮かび上がってこないだろうか。  とはいえ、それでも同じ日本でも、あるいは同じ日本の詩人であっても、皆が皆、雨や海辺に同様のイメージを持つわけではないことを忘れてはならない。たとえば、宮沢賢治などどうだろうか。賢治といって思い浮かべるのは、かの「イギリス海岸」である。けれども、そこで「海岸」は、こんな風に語られている。

夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。

それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。

イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。

殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云いへず青白くさっぱりしてゐました。

所々には、水増しの時できた小さな壺穴の痕あとや、またそれがいくつも続いた浅い溝、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆きれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。

日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠かむってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした(宮沢賢治「イギリス海岸」青空文庫、http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4417_9667.html、太字筆者)。

  いわば、本当は北上川に来ているのに、その土壌の質からしてまるで、イギリス海岸にいるかのように幻惑しているのだ。賢治は、ある種の科学者の眼を持っているひとで、当然、河原にいても、その地質や落ちている石等土壌に関心を持つ。もちろん、「イギリス海岸」は詩ではない。では、次の詩はどうだろう(とはいっても賢治は、「詩」ではなく「心象スケッチ」と言うだろうし、その方がしっくりくるが)。

〔つめたい海の水銀が〕

一九二四、五、二二、

つめたい海の水銀が

無数かゞやく鉄針を

水平線に並行にうかべ

ことにも繁く島の左右に集めれば

島は霞んだ気層の底に

ひとつの硅化花園をつくる

銅緑〔カパーグリン〕の色丹松や

緑礬いろのとどまつねずこ

また水際には鮮らな銅で被はれた

巨きな枯れたいたやもあって

風のながれとねむりによって

みんないっしょに酸化されまた還元される

(宮沢賢治「春と修羅 第二集」『宮沢賢治全集1』より)

他にも「河原坊」という詩もあるが、そこでもやはり、科学と風景、とりわけ化学と風景とを融合させるような描き方がなされているのは、「つめたい海の水銀が」同様だ。これは、やはり彼の科学への志向も一因だろうが、そこには風土の違いあるように思えてならない。賢治には、夏には”寒さ”で農作物の不作を時には経験する、東北は岩手の風土がある。つまり、金子からは、東南アジアの湿潤な多雨地帯の海岸沿いをバックボーンとして、どこか低い、腐臭がするような海辺の貝殻や雨ざらしの葉裏にびっしりと繁茂する蛾の卵を通して、生物と土壌が迫ってくるように感じられるのに対して、宮沢賢治からは、東北岩手花巻をバックボーンとして、海は海でも太古から脈々と堆積するゆるぎない鉱石鉱物が、ときには「グスコーブドリ」で噴火する火山に見られるように、高みから迫ってくる、そう言ったら言い過ぎだろうか。

どっちがいいという問題ではもちろんない。私は「河原坊」が実際大好きだ。 しかし、金子の水にまつわるイメージを考える上では、彼が旅をした東南アジアのモンスーン地帯、熱帯雨林地帯がその土壌となっているということは重要だろう。

もう一点、ラジオでは、金子の詩を、もう「反戦詩」みたいに読むのはいい、というようなことを言ったが、矛盾するように、反戦詩としても読めるとも述べた。じゃあ反戦詩として読める部分を無視したいのかといえばそうではない。  私がいやなのは、どうも反戦だからこんな詩を書いた、というような、この“だから”の部分にある。これは、詩と政治性の問題に絡むが、私の考えは、吉本隆明が「詩人論序説」で語った次の言葉を、改めて繰り返せば事足りると思う。

社会には、詩で解決が考えられるような課題は、何一つ存在しないということである。小は、一本の万年筆をつくることから、大は社会を変えることまで、詩によって解決できるものは、この社会には存在していないということである(『吉本隆明全集6巻』84頁)

しかし、じゃあ批評にそんな意味があるかと考えているかといえば、そうでもない。いずれにしても、そこらに生きるひとびと(わたしもそこに含まれる)にとって、言葉が力を持つということが大事で(それを吉本的な言い方をすれば、人民への権力の委譲とでもいうべきか)、変な具体的で矮小化された(いわば投票行動のような)「政治」的行動との関係などどうでもよい。これについては書き始めると長くなるから、尻切れトンボで放置しよう。

いずれにしても、なんか、こういう“だから”の接続詞が嫌いなのである。でも反戦を否定するわけではない、それはどういうことか。つまり、いわば金子には、生きていることとは、うっとうしい、という存在感情、情態性のようなものがあって、それがなによりも反戦に彼をさせているということだ。もちろん反戦にだけではなく、唯一えろにもさせているわけだろうが。この違いは実は決定的で、最初にあるのは、けだるさや、諦め(しかしこの諦めは生命の豊穣さ、人間の営みを消し去っても繁茂する力強さへの諦めでもある)であり、“反戦”みたいな政治的信条がまずあるというわけではないのだ。政治的信条が先にあるということは詩にとっては逆を言えば致命的だ。政治的信条がなければ詩を書けないっていうことさえありうるわけだから。

しかし、存在感情、なんかいまじぶんが生きているその感じ方、情緒というのは、いわゆる「政治」が問題にならずともいつだってどこだってある。なくたっていいと良く思うけれどもあるんだから仕方がない。おそらく、金子は、だから、ただでさえけだるくてめんどくさい生(うっとうしい)なのに、よりいっそう戦争だなんて、わずらわしいことやめてくれ、ということでしかない。“ことでしかない”けれども、これは決定的ではないか。

存在感情は、まあ金子のようにけだるく感じていない人でも、もっとポジティブな形でもありうるだろうし、そのポジティブさやネガティブさの中ではじめて、言葉に戦争的な主題が表れざるを得ないだけの話であり、その逆ではないということ。

主として改めて言いたいのは、だから、金子を読むときになにより感じるのは、1. 東南アジア的風土と、2. うっとおしい存在感情、だということ、そしてこのふたつが、「貝」に歌を歌わせているということだ。

きう というその声。しかし、不思議ではないか。どうして、その声が聴こえてくるのだろう。けだるい存在感情と、この東南アジア独特の風土の中で、金子は、まるで、足元で世界を見て、嗅ぎ、聴いているかのようである。そうでなければ、どうしたら、鼻につくような足元のつんざく匂いや、それこそ貝の声を聴くことができるのだろう。

References

References
1 http://www.ustream.tv/recorded/53750444

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です