この髪型は、おつがみ=立髪 という、安土桃山時代の髪型であり、大原梨恵子によれば、「浪人とか病気の者がこの髪風であったが、(略)戦国期の余波もあって、浪人にとどまらず、仲間(ちゅうげん)、小者などまで一種の伊達風俗としてこの髪風を好んだ」(58頁)という。
2の中剃二つ折は、「前髪を残して頭の真ん中を剃ることであることから若者の者が行う。いわゆる元服前の男子の髷」(59頁)で、時期としては、1に同じく、安土桃山あたりで、3と4は、大原の分類では、江戸時代前期に入る。
たちぬけにこんな画像を出してきてなにを考えたいかと言うと、日本の近代以前のセクシャリティー、それも「男性性」の歴史的形態である。注目すべきは、前髪である。この四つの髪型に共通するのは、どれも、この髪型をなす生物学的男たちが、当時の社会の中で、辺境的な位置にあったこと(浪人や、若者)であり、そしてなにより、前髪があることだ。
前髪があることがなぜ重要なのか。それは、前髪は、若衆から、元服を経るとき、切り落とされるからだ。
元服という、一人前の男性(ここでは一応江戸時代の武士達としよう)になるための「通過儀礼」を経たことを明かすのは、前髪がないことである。前髪とは、「一人前の男(武士」ではないことの象徴であり、しかし、より興味深い事に、社会の中心(権力を担う)に位置する「男=武士」にとっての、性的魅惑の対象なのだ。性的象徴といってよい。西欧化された現在の日本社会における、女性の胸等々と同じ対象と言ってよい。
そなたはだれにゆるされて、元服したる
井原西鶴の「惜しや前髪箱根山颪」(『武道伝来記』)のなかで、弟分の水際(みずき)岸之助から袱紗(絹の包み)に包んだ前髪を渡されたとき、兄の松枝(まつえ)清五郎は、この言葉を投げつけ、自分の了承なしに、元服した事に怒りくるって、弟分を殺したという。要するに、兄分(男)と弟分(少年)という忠臣の関係は、両者の性的関係によって成り立っていたわけで、それまで愛していた者が、もはや性愛の対象ではなくなったことに怒っちゃったわけである。それほど、前髪が当時の「男性」にとって重要な対象だったわけだ。
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1652年、武断政治から文治政治へと移行していた幕府は、若衆一同に、前髪をそり落とす事を命ずる。幕府と言う規制権力の中心に座るのも「武士」には変わらないが、それまでの兄分と弟分等々の忠臣関係が彼らにとって恐ろしいものになっていたわけである。二人の個人の性愛的関係は、この関係の維持のために、下克上さえも厭わなかったからである。
この髪型は、若衆髷の、まさに最も重要な部分、前髪を落とした歌舞伎役者のそれである。
歌舞伎役者とは、もともとは、「かぶき者」たちを劇化したさいに登場しており、「かぶき者」とは、江戸初期に江戸周辺を浮浪していた者たちである。「傾く(かぶく」という動詞の連用形から生まれたのが「かぶき」であり、逸脱の意である。彼らは、下克上の戦国時代に生きていたかった、そう想い、『豊国祭礼図屏風』の「かぶき者」の刀の鞘には「いきすきたりや二三」という字が刻印されていたほどであった。23歳まで生きすぎてしまった! 前髪を落とす前に、じぶんは、死ぬべきだった。 もしくは、 戦国時代に死ぬべきだった。まさにそういいたげだ。
幕府は、「かぶき者」の格好をするのも禁じ始めるわけだけれども、その背景には、やはり彼らが武士の「家」に仕えるのではなく、個人間のエロティックな忠臣関係を機軸に動くということがあっただろう。
戦国武将が猛々しくそれぞれの名前が逸話と共に語られるのは、まさにその個性によるところが大きい。それに比して、江戸幕府の、将軍達の名前の埋もれっぷりは、はんぱないのはいうまでもない。もはや重要なのは、将軍個人ではなく、将軍家の存続、ひいては徳川江戸幕府の存続だったわけだ。
考え深いのは、法的な禁止(前髪をそり落とせ!)の以前から、前髪は、性的対象であったこと、そしてどうして一人前の「男=武士」として元服後は、前髪を持ってはいけなかったのかという点。いけないというよりは、おそらく、一人前の「男」が前髪を持つことは、恥ずかしかったに違いない。
「通過儀礼」によって、「大人」になるとは、「去勢」を受け入れることである。それは、想像的に肥大化したおのれのペニス(実在のペニスではなく、ファルス)を切り落とし、他者達から認められたペニスを持つことで、この文脈で言えば、もはやじぶんのリビドーの備給対象にしないことを意味する。つまり、じぶんのペニスは、じぶんの欲望の対象とはならない。あくまでも、他者達の欲望の対象(若衆から”イれられたい”と思われる対象)にしかなってはならないのだ。
だから、単純に、江戸時代や武士道の世界は、同性愛に寛容で自由だったという話ではない。もちろん、いまよりは社会全体として寛容で、じぶんの息子を出世させたい親達は、じぶんの息子をどうにか武将達のお気に入りの若衆にさせることを願っていたのは確かである。けれども、そこには、権力をめぐる闘争があり、二つの象徴間の、ヒエラルキーといえるようなものが確認できるのだ。
つまり、前髪とは、性的象徴である、しかし、それを持つことは、社会的には一人前ではない、非自立的な存在を意味するのに対して、元服後の男が持つ性的象徴としての男根は、同じく性的象徴であるが、それを持つことは、自立的な存在を意味するのだ。 単純に”同性愛”というときのニュアンスにあるのは、両者の関係が対等で平等であることだけれども、そのような対等性はなく、両者の関係は非対称である。
この図に象徴されるように、相手が生物学的女性との関係であれ、権力の中心にいるのは、男根であり、だから、若衆という存在が重要だったというよりは、重要なのは男根であり、これを持つ者にとって、操作のしやすい性的対象(それでいてそうなる事が可能なもの)だったようにも思える。
クラウスのこの本には、100枚以上の春画とうとうの図像があるが、これを見ていて気になったのは、一見すると、同性愛の図像が見当たらないということ。ひとつには、クラウス自身が同性愛の図像収集に関心がなかった可能性がある。しかし、以下は仮説だけれども、実は、同性愛の春画は不可能だったのではないか。なぜならば、前髪を持つ生物学的な男のペニスは、見られてはならないものだったからではないか。
前髪を持つということは、男根を持たないことである、だから、当然その男根が露になっていいはずがないではないか。 専門家に一度きいてみたいものだ。