イニャリトゥ『バベル』


『バベル』は、フラストレーションのたまる映画だった。

何にフラストレーションを感じるかといえば、大枠がつかめても、細部の細部がわからないということ。

大枠は、よくできている。(以下ネタばれあり)

日本人の綿谷安二郎(役所広司)は、妻が自分の趣味の猟銃で自殺をして、たぶんその後で、その銃をモロッコのガイドに人に譲っていて、その銃がモロッコの荒野みたいなところでプリミティブな牧畜生活を営む家族に渡り、その息子たちがその銃を使って、テキトーに遠くを走っていたバスを撃ったところ、それがモロにアメリカ人の観光客に当たってしまう。

 

そのアメリカ人の夫婦は、サムという三人の子どものうちの一人を何が原因か分からないけれど亡くしていて、いわばその点で、綿谷の家族同様、死を引きずっているというシンクロがあって、その死によってわだかまりができた夫婦関係を再構築(?)すべくモロッコに旅行に行っていて、その間、息子と娘を、不法入国していたメキシコ人女性のアメリアに託して(というか家政婦としてずっとこのアメリカ人夫婦に雇われ続けてきたのでそれが自然)いたんだけど、アメリアは、メキシコに残したじぶんの息子の結婚式があって、どうしてもそれに出席したいんだけど、モロッコでの事件で帰って来ないアメリカ人夫婦の手前、彼らの息子・娘を連れて、メキシコに帰るんだけど、甥のサンティアゴと一緒にアメリカに戻る(最不法入国)する際に、不法入国がばれて、もうアメリカにいけなくなってしまう。

 

話としてはこんなところで、中心軸にあるのは、「バベル」といういわゆる創世記11章の例の話であり、天まで届く塔を建てたことで、言葉を混乱(バベル)させ、人々を散在させてしまったという話であり、いわば、アメリカ人夫婦もモロッコの地で言葉の不自由さを経験し、他方、メキシコ人の彼らも国境警備の警官との間にディスコミュニケーションで悲嘆する。なにより、日本人の綿谷の娘は聾で、耳が聞こえず、それがゆえに、周囲とのディスコミュニケーションを抱え続けている。なにより娘は父と、母の死をちゃんと向き合う事ができていなくて、アメリカ人夫婦と同じ困難を抱えているのだ。

 

で、いわば、バベルの塔って、天まで届く塔だけど、彼らが住むが、いわば日本の超高層マンションで、そこで綿谷の妻は、ライフルで自殺をするわけだ。 まあ、高層マンションという近代性、さらには銃と言うこれは中世以来の文明の武器、これがディスコミュニケーションを深めるし、創造しつづけているわけだ。

 

 

で、こういう大枠はわかるから、それがパズルのようにわかりはじめると、とても気持ちがいいわけだけれども、よくわからないのが、先ほども言ったように細部。

 

 

1. 死をめぐって具体的にどんな出来事があってディスコミュニケーションが生じたのかがわからない。アメリカ人夫婦にせよ、綿谷親娘にせよ。
2. 最後、警察官に、綿谷千恵子は、長たらしいメモを渡しているんだけど、それになんて書いてあったのかがわからないまま。

 

じぶんはやっぱりこういういちいち細部まで知って、そうして、もっとのめりこんでいくのが好きなだけに、ほんとにこういう放置プレイは苛立ちがある。

 

しかし、イニャリトゥは、細部のことはどうでもよかったんだと思う。結局、大枠の、ディスコミュニケーションの伝達だけが彼の言いたかったことのように思えるし、世界のゆがみ(メキシコの不法就労問題やモロッコのどことない貧しい原始性と、先進国の富裕層(アメリカ人夫婦、日本人親子)の生活の煌びやかさが示す虚栄、とを対比的に描きたかったように思えた。フラストレーションを、千恵子ら登場人物たちがまさに映画の中で生きたように、読者にも経験させよう、そういう意図があるのであれば、この映画は、すくなくとも僕には、成功してしまっているようにも思える。

 

個人的には、千恵子が痛々しすぎて、見ていることがとてもつらかった。特に、いわゆる健常者の若いイケメンにナンパされても、聾だとバレルや相手にされなかった反動で、トイレで下着を脱いで、露出狂のように、スカートの下を若い男たちに見せ付けるシーンや、歯医者の中年男性を誘惑して拒まれるシーン、さらには30そこらの警察官に裸で迫るシーン。もちろん、言葉と言ういわば遠隔(?)表現でディスコミュニケーションが生じる中、そのフラウストレーションを、直接的な肌のふれあい、要するに性的接触で乗り越えようというそのしぐさ、それは、それで本当に傷ましくて見ていられない。見たくないシーンだ。尊厳が逆にない人間の表象に思えてならない。だから、実際に聾唖者たちから、健常者の菊池が千恵子を演じた事を批判する意見があったらしいけど、尊厳が損なわれた表象だからかもしれない。

 

 

監督と性癖がかぶってどうしようもないなーと思ったのが、アメリカ人夫婦が、仲を再構築するそのきっかけとなるときのエロティックなシーンで、要するに銃で撃たれて、排泄が難しくなって、その介助をするときに、つまりは放尿しながら抱きあってキスをするというシーン。このあたりはどうしようもないね。汚濁と性と聖というか。

 

 

自分の中ではこれだったら、同様に別々の生が邂逅する瞬間を描いた、それも細部までこちらに届けてくれていた、『アモーレスペレス』(同じくイニャリトゥ監督)の方が優れていると思った。

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