ブレイディみかこの『子どもたちの階級闘争』を読んだ。きっかけは、いくつかあるが、例えば、最近読んだ記事ではこう評されていた。
最近でこそ「反緊縮」みたいなことを言うリベラル文化人も出てきましたが、断言しますがこれは完全にブレイディみかこさんの影響です。ブレイディみかこが登場しなかったら、リベラルな人たちの口から「反緊縮」なんて言葉が出ることはなかった[1]栗原裕一郎の「平成の論壇:ニューアカの呪縛」(2)https://www.mainichi.co.jp/heisei-history/interview/14.html 。
リベラルー保守 の動向を考えるのに、基本的に拾っておく必要があるラインとして、ブレイディの本は位置付けられているし、それ以前も、さんざん私が目にする記事や本で言及されていたので、今回読むことにした。
前評判通り、緊縮の問題点を、イギリス社会の、託児所という場所から描く、という点に本書は意義があるのは言うまでもなく、加えてユーモアあふれる、ときおりロマンチックで感傷的な文体で描いているため大変読みやすい。もともとブログ記事だったためだろう、一節一節のキレがとても心地よい。断片の縁が、大変磨かれているという表現が妥当だろうか。一般書が、全体の論旨を崩さず論理転換を追っているがために、失われがちなエッジのキレがそこにはある。
では、全体の論旨がてんでバラバラなのかと言えば、そういうわけではない。全体構造は、彼女が勤務した同じnursery schoolのa) 2008年-10年の緊縮以前の時代と、b)2015年-2016年の「緊縮の時代」と、を比較しながら、ルポルタージュする形になっているが、なによりも、クロノロジックに、a→bという順番ではなく、まず彼女がネガティブに描きたいb→aの順番で構成されている。間には「中書き」まである。
しかし、私としては気になったのは、この構造と、彼女が理想とするものとの関係である。時系列を逆転させたことで、全体構造として、近視眼的なスパンであるが、過去の時代や社会状況をノスタルジックに美化し(その文体がそれを助長する)、そこを批評のてことして、昨今の「緊縮の時代」を批判する形になっているのだ。
では、ブレイディは、「緊縮」以前のいったい何に理想を見出していたのか。ブレイディはこう言う。
(略)私にはそこからなくなったものがはっきりとわかった。なくなったものこそが、そこにあったものだからだ。それはアナキズムと呼ばれる尊厳のことだった。アナキズムこそが尊厳だったのである(284頁)。
ブレイディが、「緊縮」を批判しながら結局のところ求めるのは、緊縮前に国が提供していた環境の再興ないし、再度財政支出して「アナキズム」を担保せよ、ということである。言い換えれば、彼女は、国家財政に依存することで作り出すアナキズムを求めているわけで、おそらくそれは、「国家社会主義」(state socialism)であるか、もっと妥当に言えば、戦後西欧諸国の多くが体現した「福祉国家」であろう。
こういうブレイディの文体と過去の理想を遡及することで、現状批判をする仕方を見るに思うのは、昨今まさにこういった「批評」が増えてきた、その意味で、こうした形態の「批評」に「享楽」する人々が後を絶たない、ということだ。
こんなこと言われたくはないだろうが、現状の「社会」に毀損点を見つけ、その欠損に耐えがたく、「戦前」の「日本」社会だったり、高度成長期の「きずな」で結ばれた社会へと回帰しようとする「保守」系論客も、同様の「欲望」に駆動され、「社会」の「批評」を行う(こんなものを「批評」と呼びたくないのはさておき)。
SEALDSもそうだろう。55年体制期の、戦後の「平和」国家日本を理想し、そうした日本社会の崩壊を嘆く。
私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の3分野で、明確なヴィジョンを表明します。(SEALDSの HP,「Statements」より)
戦後日本の、いわゆる「日本型福祉国家」にせよ、戦後西欧の「福祉国家」にせよ、そうした頼りになる、誰も見捨てやしない「父性」を愛する子供たち。私たちは、「父」なき時代を、生きている。あるいは、皆を包摂するような器のでかい、他方で権威的で強権的でもあった「父」を失い、小さく弱弱しいさまざまな多数の「父」たちの時代を生きている。
なるほど、戦後西欧的な社会包摂機能が財政的にも担保されていた「福祉国家」は望ましい。しかし、そこにある問題は、どう考えるのか。ブレイディ自体も、「底辺託児所時代」(2008.9-2010.10)の章で、以下の様な記述を残している。
イギリスでは最近、ワーキングクラスより下の階級のことがよくマスコミに取り上げられている。残忍な幼児虐待事件を引き起こす家庭がベネフィット(生活保護)受給家庭であった、みたいなニュースが相次いでいることから、この「全然労働していないからワーキグクラスとは呼べない」階級の存在が騒がれるようになったのである。(略) 困窮している人には住む家を与えますよ。仕事が見つからない人には半永久的に生活保護を出しますよ。子供ができたら人数分の補助金をあげますよ。の英国は、その福祉システムのもとで死ぬまで働かず、働けずに生かされる一族をクリエイトした。そのような一族に生まれ、人間は一日中テレビの前に座ってチョコレートを食べて生きるのが普通なんだと思って大人になる子供たちは、そのうちチョコだけでは飽き足らなくなって別のものにも依存するようになる。そして子どもを作り、その結果として補助金が増えればさしあたって生活の不安はないが、その代わりに希望もないので家の中で暴れ始め、DV問題へと発展するケースもある。一見自由に生きているように見えてもライフスタイルには幅がなかったりする(197-198頁)
ここで私が想起するのは、福祉国家化していくフランスの情勢について批判的に「権力」の観点から言明していいたフーコーだろう。
フーコーが言うように、「生権力」は、もはや生殺与奪の権力を振るわない。それよりも、ただ「生かす」ことによって支配する権力である。まさにブレイディが言うように「その福祉システムのもとで死ぬまで働かず、働けずに生かされる一族をクリエイトした。そのような一族に生まれ、人間は一日中テレビの前に座ってチョコレートを食べて生きるのが普通なんだと思って大人になる」、そういう仕方でただ生きる「主体」を生産する権力だろう。
社会に対して、「欠損」/「欠如」を、かこの充満した理想状態から差し引くことで見出そうとする「批評」的眼差し、おそらくそのとき、起点とした「理想状態」についてラディカルに考えることを人はやめるのだ。なぜならば、根底有るのは、いまのじぶんじしん、じぶんを取り巻く社会の不全感、生きていることの空虚さ、満たされなさであり、それから目を逸らしたい、ただそれだけなのだ。だから、その意味ではそれは「理想」とは言えない、と言ったところで、だろう。
小さな「父」たちの、穴ぼこばかりのこの自分たちとその社会とを生きるとき、結局のところ求められるは、そんな不全のじぶんから目を逸らしてはいけない、ただそれだけなのだ。
References
↑1 | 栗原裕一郎の「平成の論壇:ニューアカの呪縛」(2)https://www.mainichi.co.jp/heisei-history/interview/14.html |
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