大塚英志『「おたく」の精神史』


 

大塚英志『「おたく」の精神史』を一気に読んで、正直励まされた思いに駆られている。
批評の営みとは、歴史を書くことの営みとは、極めて厳密に「客観的」に書かれてしかるべきものである、そう多くの人が思っていることだろう。だとしたら、そう考える人は、この本の「主観的」な叙述に戸惑うことになる。
実際、本書のタイトルにあるように、大塚は決して「オタク」とは書かず、あくまで彼にとっての「おたく」にこだわり続け、そして東浩紀からは、大塚は自分の経験を一般化するのを拒んでいると批判も受けたという。
しかし僕からすると、この本の魅力と本質は、「おたく」と書き続けた事だったように思われる。大塚自身はこう述べる。

80年代という溢路を記述するためにぼくが極めて主観的な方法をとったのはこの溢路を「他人事」として相対化したくないからだ(364頁)

かといって、僕が励まされたのは、彼が極めて「主観的」に歴史を書いたからというだけではないし、言い換えれば、彼が「自分事」として「おたく」について書いたからでもない。
宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』に従えば、大塚が「おたく」という用語にこだわったのは、彼が自身を戦後民主主義者として規定しているからだという(329-330頁)。

マッカーサーが戦後日本を「12歳の少年」と形容したわけだけれど、保守主義者たちがそれを拒み普通の大人の国に「成熟」すべきだとして再軍備を説くのとは違って、戦後民主主義者たちは、アメリカの核の傘の下に入って超大国の軍事的庇護を受けながらも自らを最低限度の自衛力しかもたない「平和」な国だとうそぶき、アメリカから「与えられた」(一応こう記しておく)憲法9条を重要視したのが、戦後日本の保守と革新との対立といっていい。戦後民主主義者、それは言い換えれば、「偽善」を選択し「成熟」を拒んだ少年だというわけだ。

とはいえ、僕が感じることがあったのは、宇野が言うような、戦後民主主義者としての大塚の立場でもない。そういう、思想のふるい分けや、継承にこだわったという言ってみれば表面的な態度・立場の設定の次元ではなく、「おたく」と書かざるを得ない、大塚の「精神性」、「成熟」とはなにかについて、彼が真剣におのれの問題として抱えているからこそ、そう記すことにこだわり続けた、そのこと、感銘を受けたのだ。otakuを「おたく」と書くことは、大塚のこの語によって名指そうとしている対象の”精神”に極めて充実であるし、そうしたじぶんと本当に真摯に向かい合っている。

 

どういうことか。つまり、大塚が描き出したい対象=自分の”精神”とは、「オタク」と書き一般化されたならば、その本質が失われるものだということだ。それに対して、「一般化」を拒んだという批判は、したがって、当たらないだろう。「一般化」できない存在こそ、「おたく」なのである。たぶん、「おたく」へのこだわりも、「オタク」が一般化されたから可能になっただけな話で、もし「オタク」が一般化されていなかったならば「おたく」という語さえも大塚は拒んでいたのではないか。

 

このことを理解できないと、大塚がどうして、上野千鶴子らに確か「大塚は通過儀礼や「成熟」とか言わなければ」(うる覚え)と批判されるわけだけれども、「通過儀礼」や「成熟」にこだわるのかさえも理解が出来ないことだろう。

「通過儀礼」とは、僕なりに言わせれば、実存が社会化されるときに、他者達の住まう世界に入っていく際に、その手ほどきとなる第三者/第三項のことである(社会へと導いてくれるのが人であれば、第三者、社会へと導いてくれるのが儀式であれば、第三項)。なんで大塚が、宮崎勤や、神戸連続児童殺傷事件の14歳の中学生にこだわったかといえば、その精神が抱えていたものとは、この第三者/第三項と彼らが適切に出会う事ができなかったということだったのではないか。

精神分析の用語で言うならば、「父の名」nom du pèreと言ってもいいし、通過儀礼とは、要するに「象徴的な他者」との出会いの場であり、「象徴的な他者」によって、社会システムの一つの場所を指し示すなんらかの象徴的な名前を与えられるという経験なのだ。
「成熟」というと、「大人」になることであり、したがって、それを問題にするということは、簡単に言えば、「大人になりなさいよ」「大人になる事が重要」という事になりかねず、それだから、「成熟」なんて言い始めるのはつまらないことになってしまうわけだけれども、実際大塚が問題にしているのは、そんなありふれたことがらではない。大塚が結局解き明かしたかったのは、人間存在の社会化の過程なのである。この過程を経なければ、精神分析では、一般的に「精神病」者となるといわれるような事柄だ。
「大人になる」ことをつまらないと言ってしまうひとには、じぶんたちがあたり前のように社会化できてきたことが見えていない。どうやって、じぶんがじぶんになることができたのかわかっていないし、それがどれだけしんどい作業だということを認識していないのだ。
つまり、思うに、多くの人は、社会的地位を示すさまざまな名称がじぶんに割り当てられても、不安を感じることはない。「先生」と呼ばれることをときには喜ぶ人もたくさんいるだろう。しかし、大塚にとって、そしていまこのように書いている僕自身にとって、社会的地位やそれを象徴するなんらかの用語をじぶんにあてはめても、違和感しか感じることができないのだ。根本的に、じぶんを名指す言葉が欠けてしまっている。せいぜい「僕」等々、大塚で言えば「おたく」と言ったように、主観的で誰にも適用できないようななんらかの呼称をしぶしぶ使わざるをえないということにいきつく。

 

その点で、興味深かったのは、なるほどな と思ったのは、神戸の事件の少年が、「愛する「バモイドオキ神」様へ」となる手紙ないし手記を書いていて、この「バモイドオキ神」なる「象徴的他者」に、承認してもらうために、公園でひとりで歩いていた女の子に金槌を振り下ろすのである。この儀礼によって、彼は、「酒鬼薔薇聖斗」という名を「バモイドオキ神」から頂くのだ。もしこの儀式がなければ、彼にとって、この世界には、なんら他の人と共有可能な「現実」は形成されえなかっただろう。

 

もちろん、だからといって、この少年がしたことを正当化することはできないのは言うまでもないが、しかし、彼の周囲のひとたちが、彼の社会化に失敗した点を問題視することはできるだろう。「バモイドオキ神」とは違う「象徴的他者」を彼に出会わせることがどうしてできなかったのか。どうして自己流の社会化を彼に強いてしまったのか。この点はやはり考えなければならない点だ。

 

そう考えてみると、東はよくわからない。なんで大塚に「一般化」しろだなんてことがいえたのだろう。彼自身、こうしたいわば「父権」や「象徴的他者」の問題をよく理解しているからこそ「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」なる書物を書いたのではなかったか。
大塚が、宮崎勤を「じぶんだ」と言い放ったのは、こうした「象徴的他者」との関係、第三項との関係形成がうまくいかなかった経験をさしてのことだと思う。その意味では、僕もまた、この経験を共有していると断言できる。僕は、第三項との関係がうまくいかなかった結果だからだと思う、いまでも”なににもなりたくない”という思いを根底に持ち続けている。しかし、なににもなれないことは、社会に居場所を持たないことである以上、ほんとうにそうであれば、それだけ生きる事のしんどさを感じざるを得ないだろう。象徴的な何かになり、何かを得る事ができずに苦しむわけである。

 

大塚が僕と同じことを感じているかは分からないし、それこそ「一般化」は不可能だ。それでも、大塚の試みは僕にはこう写る。自分を社会の中に位置づける経験につまづいた人が、その社会の歴史を、そこに自分を位置づけながら描き出そうとする試みなのだ、と。そして、それは、彼なりの遅ればせながらのひとつの社会化の方途でもあるし、そのような試みをしている人がいる、それも極めて説得的に80年代を些細な細部にまでわたって描き出している、どれほどそれが僕のような人間を鼓舞することだろうか。
感銘を受けたのはそのためである。

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