信田さよ子「家庭は崩壊しつつあるのか?――多様化する家族」


信田さよ子「家庭は崩壊しつつあるのか?――多様化する家族」(『歴史地理教育』2003年1月号)を読んだ。教員用の雑誌に書かれているため、かなりエッセンスに詰まったもの。

 

アダルト・チルドレン(AC)という言葉をご存知だろうか。(略)私はACを「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」と定義している。(17頁)

ある30代後半の男性は父親が母を日常的に殴る光景を見て育っていた。彼は母親を心より気遣い、何度も救おうとしたが果たせず無力感を持って成長した。殴られていた母親は一方的に被害者であるかといえばそうではない。夫への不満、自らの生活の廃棄物であるかのような愚痴を彼に垂れ流していた。彼はそれをまるでカウンセラーのように聞いて育った。その彼が妻に対して行っているのはかつての父と同じ行動だ。

 なぜそのようにして子供たちは不幸な母を支えるのだろう。子どもにとって家族を離れることは不可能だからだ。それ以外に生きる場所はないからだ。最近自ら児童相談所に逃げる子ども達が現れたのは画期的なことだ。

 夫から支配され、反論不能であればあるほど、子どもを自分の支え手としていく母親達は、それを「おまえのために」「あなたのために」という愛情であると信じ込ませていく。「おまえのためにがまんした」「だからお父さんと別れなかった」などという言葉がいかに日本の家族にありふれている事だろう。このような「愛情」を「支配」であるととらえなければ、そのひとたちの苦しみは葬られたままになるだろう。

 母親(妻)は自らの被支配体験を子どもへの支配によってあがなっていくのだ(19頁)。

妻[母親]も、子どもを「じぶんのもの」と考えるとき、子どもが自分の愚痴を聞き、いい子でいることを検証する事はないだろう。子どもたちがどのように親を支えることに必死だったかは想像されることすらないだろう(19-20頁)。

M・フーコーが述べているように「権力とは状況の定義権のことである」とするならば、(略)。

  ACという言葉は虐待の表面化に大きく寄与した。そのひとたちは成人してから子どもの立場で親の行為を虐待、暴力と定義づけたのだ。それは極端にいえば、家族と言う密室の中で繰り返された親の加害行為の証言だったのだ。そのひとたちは状況の定義権を奪還し、愛情ではなく支配だと定義した。親の権力に対する異議申し立てだ。(20頁)。

これらの言葉を、涙なくして読むことができないひとが、この世から少なくなることを祈ります。

信田さよ子「家庭は崩壊しつつあるのか?――多様化する家族」」への2件のフィードバック

  1. DAI

    「母親は、産んでくれただけの知人」
    その他…
    あなたの記事を拝見するするたびに、悲しい幼少時代を送られたのかな、と想像してしまいます。そんなに母親と娘の関係を壊したいですか。あなたがどう思われても自由ですが、少なくとも影響力のあるお立場での発言ですから、少し考えていただきたいと思います。また、以前は、ひどい夫を持ってしまった女性が、ふと息子に愚痴をこぼしてしまったことを責める記事も拝見しました。う〜ん、なんでしょうね。母親は一方的に家族に仕え、ひどい夫にも我慢して、娘には、何も語らず、自由し放題にしてあげて、最後は一人で死ねっていう解釈でよろしいのでしょうか?

    返信
    1. jambeenflee 投稿作成者

      Daiさん
       コメントありがとうございます。
       「母親は、産んでくれただけの知人」という言葉や、「以前は、ひどい夫を持ってしまった女性が、ふと息子に愚痴をこぼしてしまったことを責める記事」とありますが、いったい私が書いたどの記事についてでしょうか。いまいち文脈がよくわからなかったので教えてくださるとありがたいです。

      「母親は一方的に家族に仕え、ひどい夫にも我慢して、娘には、何も語らず、自由し放題にしてあげて、最後は一人で死ね」などとは思っていません。私は、夫からも息子からも自由になるべきだ、という立場です。一言で言えば、「母」であろうと、家族関係に過度に縛られて、人間としてのおのれの「欲望」を手放すことはあってはならない、と考えています。
       

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