原彬久『戦後史のなかの日本社会党 その理想主義とは何であったのか』


2015年、それは沸騰した年だった。政治的にはSEALDSを中心とした運動によって。

そうした「大衆運動」に微弱ながら足の指をつけこみながらも、他方で、どうしていまの政治的状況が作られたのか、なぜここまで展望が悪化するまでになってしまったのか、どうしても問が芽生えてやまない。とりわけ、日本の戦後史において、左派政党は、いったいなにをしてきたのか、とくに、70年代以降、高度成長が終わり、国際関係が大きく変化する中、何をしていたのか。こうした問がやまない。
そんな問いに導かれて読んだのが、原彬久『戦後史のなかの日本社会党 その理想主義とは何であったのか』である。

 

この本の大枠は、以下の要を得たamazonレビューで足りている。

 

5つ星のうち5.0政権交代なき一カ二分の一大政党制の原因
投稿者モチヅキVINEメンバー2007年2月8日
形式: 新書
 1939年に生まれ、ケンブリッジ等の客員研究員となった、日米安保体制を研究する国際政治学者が、2000年に刊行した本。著者の政治的立場は、170〜175頁と終章を参照のこと。敗戦直後に西尾ら右派主導で、社民系(反共右派)、日労系(マルクス主義中間派)、日無系(労農派=マルクス主義左派)が合流して、日本社会党は結成された。ただし、彼らは軍国主義者と相互往復する素地があり、またGHQの民主化政策の後塵を拝していた。1947年一応第一党となった社会党は、右派主導で連立政権をつくり、日米結合体制を模索するが、党内左派の造反や小分裂により下野する。1950年前後、平和主義を採択した社会党は、総評と結合し、永久政権論・反米・前衛主義を掲げた左派の優位を徐々に明確化してゆき、1960年の右派離党=民社党結成や、市民社会主義=江田構造改革論の挫折をひき起こす。このように社会党は、党内の分裂を収拾しえず、裏面での熾烈な権力闘争と、表面での曖昧な態度を繰り返す。外交面でも、各国の冷厳な権力政治や党内闘争に翻弄され、日本の野党第一党としての存在感を示すことができなかった(ただし、自民党の対米交渉の際には、社会党の存在が役に立った)。80年代半ばに西欧型社民主義に移行したものの、結局社会変動から取り残された社会党は、1993年の自民党分裂まで、連立という形であれ政権交代を実現することはできず、万年野党に安住した。90年代半ばの、政策大転換=なし崩しの現状肯定と社会民主党への改称は、同党の衰退を決定的にした。主観主義的で現実から遊離した「理想主義」、しかも議会主義を軽視したそれ(要は対話軽視?)こそが、結果的に自民党一党支配を利し、政治不信を重層化させた、というのが著者の結論である。社会経済的分析の少なさ、院内闘争の偏重傾向はあるが、私は著者の姿勢に基本的には首肯できる。

 以下では、読みながら考えさせられたことを示していきたい。

 

社会党は、連立とはいえ戦後、政権を担っていたが、48年10月に吉田茂が首相になって以後、93年に細川内閣が成立するまで、野党第一党にとどまった。特に、あれほど大衆闘争となった岸退陣後の1960年11月の選挙でも、結局、自民党の議席数は、287からむしろ296に伸びるほどで、他方の社会党は、166から144に議席数を落としていて、人々から支持を得るには至らなかったということ、これが重い。
思い出すのは、1960年に書かれた「実務の中の思想」の会の「ビルの内側から」というレポート。

5月20日の朝、私は新聞を見てがく然とした。興奮状態のまま満員電車に揺られ、話し相手を求めて会社にかけ込んだ。ところが20日の朝はもちろんのこと、現在に至るまで、私の職場ではタダの一言もこんかいの政府の暴挙は話題にならなかったのである。私自身からも話は切り出さず、全くいつもと変わらぬ日常業務に浸った。会社の机に向かうとやはり暴挙のことなど口にせず、ゆっくりとペンを走らせるのが一番自然に思えてくるのだ。一言で言えば、企業体のもつ一種特有のムードに押されてしまったということだ。

60年5/19に、衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過したわけで、この引用箇所の「私」は、強行採決に憤りをもって、翌日会社に出向いたところ、ビルの内側では、それまでとまったく変わらぬ日常があったわけである。

 

どうしてこんなにも温度差があったのか。もちろん、そこには運動への醒めた個々人の意識の問題も当然あるけれども、この本の中での、次の原の指摘が、その問いに対する最も説得的な意見に思えた。

 

こうした状況のなか[注:高度経済成長の真っただ中だった状況の中]それまで社会党支持層とみられていた労働者の意識もまた変化していく。かつては「失うもの」のなかった飢餓、窮乏の労働者が、少なくともその意識において「失うもの」をもつ中間層へと移行していくプロセスがここにある。自分が「中」だと考える人が64年には87%、67年には88%、以後90%台を維持している(中村隆久『昭和経済史』)。産業労働者の社会党支持率が1955年に51%であったものが、75年には30%へと急落し、給料生活者(事務職、管理職)の社会党支持率も55年の50%から75年には30%へと激減しているという事実は、同党が労働者ないし勤労者の意識変化から置き去りにされていった姿を映し出している。182頁

 

ビルの内側では、「中間層」となった給与所得者が(かつての社会党支持者も含め)変わらぬ経済秩序を織りなしていて、その仕事が生む自分の生活基盤を守りたく感じている。ビルの外の喧騒など知ったことではない、いや知ったところで、そして岸がどれほど横暴に感じられたとしても、反体制の左派政党に票を入れる気などまったく起きやしないだろう。そう考えるならば、左派政党は、中間層となった人々も取り組んだ、あるいは中間層となった人たちが支持可能な政党へと変化する必要があったし、そうでなければ、支持を失っていくのは当然の成り行きだった。

 

結果論かもしれないが、日本の左派政党にも、議会制民主主義を支持し、つまりは根本体制を支持したうえで、福祉国家的提言を行う、「社会民主主義」政党が早くから確立されてしかるべきだっただろう。その点では、社会党にいた江田三郎の構造改革論(いわゆる「構改論」)が社会党内でつぶされてしまったのが、悔やまれる。

 

公害問題によって、人々の福祉への要求(特にそれは主婦層からだったといわれる)をくみとって、革新派の地方自治体の首長が誕生していっていたとき、そうした生活保守的中間層を取り込むべく、70歳以上の高齢者の医療費を無料にする等の福祉政策を取り入れてわけだが(1973年はそれゆえ「福祉元年」)、そんな田中が、「生活向上」「反独占」「中立」の3つの柱を出して「資本主義経済の枠内で実施されうる変革」を行おうとした江田について、「自民党はいつまでも政権を握っていられるとは限らない。社会党では江田が一番怖い。江田を委員長にたててきたときは、もしかすると自民党は負けるかもしれない」と述べたことは驚くに当たらない。

 

中間層が形成されるこの高度成長期に、現在の日本社会の諸制度、とりわけ福祉に対する制度的土台が作られたわけで、そう考えれば、貧困(とりわけ女性)が叫ばれ、ワーキングプアの問題が叫ばれ、新自由主義的政策に走りゆく日本社会のその諸問題の根もまたこのとき形作られたわけである。

 

こう言うと、ヨーロッパ的社会民主主義礼賛のようなことを自分が言っているようにも思えるが、というよりは、(もちろん現状の日本よりは西欧・北欧型の福祉国家の方が魅力的に映るのはそうだとしても)今よりはまだましな社会が現実的に可能だったにもかかわらず、その可能性が潰えるのが、この本を読んでみると、社会党のふがいなさと共に如実にわかる、それが実に苦々しい、実に笑えないというのが正確かもしれない。

 

逆に、いまやもうどこにも「民主主義」とは別の政体への思索が見られない(デリダも「来るべき民主主義」と言う。来るべき政治体制ではなく)あたり、つねに現行体制とは別の政治システムが念頭に置かれていたのはまぶしくも見える。特に、ハンチントンではないが、このきな臭い、西欧自由主義民主主義VS イスラーム のような大きな国際政治上の枠組みが見られる現況においては、国内のこうした状況も一定相対化すべきなのは言うまでもない。

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