不安と享楽


 数日、不安をもたらす映像が脳内をかけめぐっている。それはたいてい、苛み、じぶんを貶めるたぐいの想像的な物語である。

 この不安から抜け出したい、そう願えども、精神分析的思考がやってきて、「お前はその苦痛を享楽しているじゃないか」との声に、またしても順繰りの苛みへと戻っていく。

 精神分析的思考の愚かなところは、ここにある。言説として、おれのなかのおれが、その苦を享楽していることを受け入れたとしても、おれのなかのおれは、だからといって、なにもすることができない点、ここにある。

 一定の享楽の構造にはめこまれた おれのなかのおれよ。おまえはいったいほんとはどうしたいというのか。

 この物語を新たに書き換えることなどできやしないのか?

 おれのなかのおれはたいてい泣くこともなく押し黙っている。

 

泣きたいやつ

ー石原吉郎ー

おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
自分の足首を自分の手で
しっかりつかまえて
はなさないのだ
おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
涙をこぼすのは
いつもおれだ
おれよりも泣きたいやつが
泣きもしないのに
おれが泣いても
どうなりもせぬ
おれより泣きたいやつを
ぶって泣かそうと
ごろごろたたみを
ころげてはみるが
おいおい泣き出すのは
きまっておれだ
日はとっぷりと
軒先で昏(く)れ
おれははみでて
ころげおちる
泣きながら縁先を
ころげてはおちる

泣いてくれえ
泣いてくれえ

(http://nakahara.air-nifty.com/blog/2015/05/post-7455.html)

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