souvereigntyについて 


高校で講師などしていると、教育関係者に会ったりその研究会に顔を出したりする機会があるが、傍らに身を置きながら、いつも腹立たしい思いがするのが、「主権者教育」というタームとこれに関する参加者の理解である。

 

なにが腹立たしいかというと、正確には、腹立たしいというよりは、傲慢にも程が有る、という感覚に襲われるのだが、どういうことかというと、まるで、どこかじぶんたちは「主権者」であり、じぶんたちのような「主権者」のように、子ども達がなるためには、どうしたらいいか、というなんとなくの雰囲気があるからである。

 

上から目線も甚だしい、しかしそれが愚かに思えるのは、私からすれば、”じぶんたちは誰も「主権者」たりえていない”、という共通認識からでしか、議論は始まらないのにもかかわらず、それをすっとばしていて、なにかしら高邁な「教育」が語られているからである。

 

もちろん、「主権者」の意味を、そしてこれが通俗的理解なのだが、「自分の人生や自分が属する社会に関して、判断し決定していく」ことを言うのであれば、なるほど専任教員(正規職員)として雇用が安定した立場で、キャリアも思い描いたとおりに、生まれ育った家庭の経済資本・文化資本・社会資本を支えにして、進んできたというならば、当然まるで、自分が「主権者」であるかのように錯覚するの頷ける。

 

しかし、一旦現在の政治的情況に身を置いたのならば、どうして日本の現統治者たちの横暴をとめられないのか、「国民主権」だなんていわれながら、まったくじぶんたちには決定権がないこの情況、政府による高江での信じられない横暴が行われている情況に眼を向ければ、じぶんたちの「主権性」はどこへいったのか、そもそも「主権」を握った事なんてあったのか、それはただのうそっぱちじゃないか! と怒り憤り嘆かざるをえないはずである。

 

実際、「国民主権」とはうそっぱちである。もっと正確に言えば、「主権」とは擬制(フィクション)である。

まあこれは政治哲学の基礎だけど、簡単に整理しておく。

 

かつてsouvereign(至上の存在)だった王様は、神様からその権力を授けられていたのだ、という王権紫綬説によってその統治が正当化されたわけだけれど、それに対して、ロックら近代自然法の思想家たちは抗うことで、souevreign(至上の存在)なのは、統治者に人々が権力を委託しているからに過ぎず、人々の自然権を守らないのであれば、その統治者の統治の正当性は皆無であると主張していって、こうして「国民」主権的な、現代の政治制度の基礎が作られていった。だから、擬制(フィクション)だというのは、実際にはsouvereignだった王様が持っていた権力を「国民」や「人民」は持っていないけれど、持っている(すくなくとも理論的根拠として持っている)のは自分たちである、という想像が基礎になっていて、それを中心にして、近代の国家は成り立っているから。

 

こういった近代政治哲学の基礎、そして現在の日本の情勢との関係で何が問われているかを考えるのに参考になるのは、例えば以下。

 

 

ただ問題は、souvereignであるとはどういうことなのかという点。代表制・議会制民主主義の現行制度のもとでは、Kelsen(1945年)のような次のような主張がもっともになる。

souereigntyは憲法それ自体の内にある

 

と。人民・国民が統治者・政府に自然権を守るせるべく、そのために統治者が守るべき条項を記載したのが憲法である。しかし、立法・司法・行政の権力をなにひとつ人民がもたない以上、実際にそれら三権を有する統治者(広い意味で)たちと人民とを媒介する憲法自体にsouvereignty(主権性)があるのだ、というわけである。

 

しかし、この考えだと、憲法がカバーしないような政治的状況ではどうすればいいのか、結局誰が統治するのか、という問いには答えられず、結果的には、憲法を解釈する人の恣意性に委ねられなければならなくなる。カール・シュミットはだから、「souvereignとは例外状態にあって決定を下すものである」という主張に行き着く。

 

じぶんたちは誰一人「主権者」たりえていない。 そう言ったし、それが出発点であるとも言った。しかし、このことがあくまでも「主権者」を目指さなければいけない、ということでもないということだ。

 

「主権性」とは擬制(フィクション)ある、そのうそっぱちさに気付いて憤りふざけんな、きちんと憲法守れ、と主張する、ルートもあれば、そうではないルートもある。憲法守れのルートは、要するに、擬制(フィクション)を巡る争いに参加するということである。

 

しかし、考えていく方向性があるとすれば、依然そうではないルート、あるいは考えが深められていっていない方向性があるとしたら、そうではないルートだろう。

 

 

 la souvereineté n’est Rien.  (Georges Bataille, La Souveraineté, O.C.VIII, p. 456.)

主権性はなにものでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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