鈴木透『性と暴力のアメリカ』


 

だいぶ前に、友人とやっている読書会?的な研究会で読んだ本。ようやく仕事が落ち着いてきたので、書評的なものを残しておきたい。

 

率直に言って、本書は、性に関する記述の甘さを除い点を除けば、とりわけ第二章以後のリンチのような物理的暴力の話についてよくまとまっていて、巻末の年表も使い勝手が良く、流れがつかみやすい。

 

ではどうして性に関する部分で読んでいて不満に思うのか、自分が感じる・思うことを書き連ねながら整理していきたい。

 

概念規定が粗雑で理解が甘く思えるのは、例えば「性革命」という本書の中心的概念で、それは「性道徳への公然かつ広範囲にわたる挑戦」「こうした現象は、ポルノの氾濫や妊娠中絶の合法化、同性愛者の権利の拡大などをはじめとして、1960年代に頃から顕著に見られるようになった者であり、一般に「性革命」と呼ばれている」(13頁)と説明される。内実としては、ピューリタン的厳格な性道徳が1960年代に急遽転倒されて性の直視、性の解放へむかった程度の意味合いだけれども、漠然とした60年代の現象に過ぎない。いつのいったい何を指しているのか、あいまいで、つかみどころがないのは、人間集団の意識の中で起きた現象を指しているから仕方がないともいえるかもしれない。

 

せめて、フーコーに言及していたらそれを踏まえたうえでの議論だと捉えうるが、それさえなくその他のフェミニズムの議論への参照もないので、アメリカの性に関する著者の把握は、つたないものであり、セクシャリティーに関する研究を踏まえていないものであることがわかる。それが本書の弱点である。

 

フーコー読解に基づいて、本書で展開されている議論を紐解くと、どのように映るか、それは、「性革命」などという価値観の大転回はまったく起きておらず、ただそこにあるのは、「告白」を巡る権力の戦略変化だけである。

フーコーが『知への意志』でいわんとしたのは、人々が性についておおっぴろげに語るようになったのは、そこに抑圧があるからではなく(フロイトを示唆)、中世以来のキリスト教的主体化の装置が関与しているということだ。

 

ところで、キリスト教の悔悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは人が隠すもの、といわれている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであるとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとしてそれを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(フーコー、79-80頁 (傍点、筆者))

 

中世以来のキリスト教の伝統からすれば、抑圧など何もないのにもかかわらず、さもあるかのようにして何かを隠す義務に駆り立てられ、自分を真の主体であることを明かすために、性についての真理を告白する、これがアメリカでの「性革命」などと著者が言う過程で作用し続けている権力作用である。性革命の背景として出される性に関する科学の成立は、告白を医学・科学のレベルに組み込んだことを意味し、それがまるで宗教性(ヴィクトリニズム)がぬけたアメリカの20世紀においても、真理の掛け金として機能しているに過ぎない。

 

フーコーは、じぶんが同性愛者であるというような「告白」を、こうして実生活においても拒むことになるのだが、そこにあるのは、このような(アメリカ的)アイデンティティ・ポリティクスへの懐疑である。

 

こうした議論と、本書で展開されていた物理的暴力の議論とを結びつけると何が言えるだろうか。

 

とりわけ、アイデンティティの形成の観点から言えば、私的武装がアメリカ建国の基盤であったと考えられているところをみると、銃を持つこともまた、アメリカ的アイデンティティの形成と関係しているように思える。

 

実際、銃規制の法整備への報復として行われた1995年のオクラホマシティ連邦ビル爆破事件は、4/19という1775年のレキシントン・コンコードの戦いの火蓋がきっておとされた日をあえて狙い、イギリス人に立ち向かって武装した民兵たちこそがこの国の基礎であり、銃を持つことこそが、自分たちアメリカ人の基盤なのだ、と(本書では「愛国心の表れ」とされる)。

 

つまり、性を語るというともすれば何もないところに何かを作り出すという内面的な暴力を行使する事で、おのれを純化した主体とし、外面的には、銃を持つことで己をアメリカ人的主体として外的に示す、それが、性と(物理的)暴力のアメリカのアイデンティティー形成の過程なのではないか。

 

もちろん、アメリカ人的主体うんぬんというのは、私の思弁が作り出す仮定にすぎないが、本書をフーコーを念頭に置きながら考え直すと、そう考える事ができる。

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