高階秀爾監修、遠山公一著『西洋絵画の歴史1 ルネサンスの驚愕』


ルネサンス絵画とは、「自然模倣あるいは現実再現」を古典古代を参照(理想と)しながら目指すものとされるし、それは知っていたが、本書で勉強になったのは、以下のふたつ。

  1. 一枚の絵画は、絵画が置かれた場所(修道院)とそれを見る人との関係で始めて意味が理解できる

例えば、レオナルドの『最後の晩餐』は、サンタマリア・デッレ・グラーツィエ修道院の古食堂に置かれていたが、その前には、ドナート・モントルファノの『キリストの磔刑』の絵があるので、レオナルドは、それを見る修道士たちが、最後の晩餐を見ながら、そのイエスが顔を上げたら、自分の磔刑の様子を見てしまう、ということを理解するだろうということまで考えて、描いている。

 

レオナルド以外では、ルネサンス絵画には、光源が設定されていることがたびたびあるが、それはその絵が置かれている場所の光の場所(窓)とも関係している。

 

したがって、美術館で、ただ一枚の絵画としてまなざしの対象とされるや、もともとの絵画のコンテキストを失いかねないということである。

 

  1. 肖像画の位置づけの変遷 不在者の似姿の呪術的な創造から、画家や為政者の個人の力を表す絵画へ

最初の絵画は肖像画であり、あくまで、プロフィール(横顔)で、自分では横顔を見ることはできないので、基本的には他人が描く、つまり他人から見たに姿を描いたものだった。中世までは、古代のメダルの表に皇帝のプロフィールがあったように、基本的に王や君主、高位聖職者といった特権的な人々のだけが肖像画(自らのに姿を)を残そうとしていて、肖像画を描かれた人物達の限定性は、あくまでも、「神の前ではすべての人が平等であるべきだとした中世の匿名性の時代」(169頁)が前提となっていた。

 

しかし、ルネサンスになって、故人の名声を残すことが可能となる近世の時代に突入し、これによって、富裕な商人や画家自身の肖像画も描かれるようになっていった。

 

そうなってきたときに、肖像画は、「特定の人の姿を後世に伝え残すという肖像の役割を捨て」(181頁)、画家個人のビジョンを示すため、要するに自らの力量と絵画観を証明するための名刺代わりと化していく。その最たる例が、レオナルド・ダ・ヴィチであった。プロモーションとしての肖像画の誕生。

 

そのとき、かつての死んだ人等、不在の人の似姿としての肖像画(死んだ人間をまるで生きているかのように再現するという意味で、呪術的な力があるとされる)という意味合いは薄れていくわけである。

 

アルチンボルドの『ウエルトゥムヌスに扮したルドルフ2世』などは、果物で皇帝ルドルフを描いていて、これなどは、まさに不在の人の似姿を描く、と言う意味は後退して、『描かれた「その人」であるか』事前に了解されていないと、誰を描いてるかわからない点で、特定の個人の権威を描くような肖像画が生まれていった言う事ができる。

 

翻って、現在(2017年)のわたしたちにとって、最も身近な自画像とはなにか。それは当然絵画ではなく、年毎に高性能化していく、スマホ内蔵カメラによって撮られた自撮画像だろう。

 

レオナルドは、『モナリザ』を手放すことなく、「フランス国王フランソワ一世の宮廷にまで携えていき、みずからの力量と絵画観とを証明するための名刺代わりに持ち歩いた」(181頁)という。ネットには、いたるところに、自撮が散見するが、単に己の似姿を見せたいというのではなく、photoshop等の編集ソフトでみずから加工しているあたり、まるでレオナルドさながら、そうした修飾の力を、ネットにアップする自撮者たちは、示しているように思える。己を表現する力の方が、まるで似姿としてのプロフィールよりも、前景化しているのが現代であり、それがテクノロジーと共に大衆化したのが現代といったところだろう。

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