ラスコー展


上野の国立科学博物館で2016年11/1から2017年2/19までやっている『世界遺産 ラスコー展』に行ってきた。

  1. なぜこの展示に関心を持ったのか。

 12月末の平日だというのに、けっこうな人で(とはいえそれでも空いている方なのかもしれないが)、高齢の人や、話す言葉からフランス人と思しき人まで、年齢的にも多用だった気がするが、正直、人ごみが嫌いな自分には、なんでこんなに多くの人が、ラスコーなんかに興味を持つのか、理解に苦しむ(ただ人が少ないことを望んでいるだけ)。文化産業が相当広告も含めて賑わっているということなのかな。

 一般1600円というチケット価格も、うーん適正価格なのかよくわからないが、1000円くらいにしてくれという学生気分が抜けきらない。

 かくいうお前は、なぜこの展示に行ったのか、ということになるが、それは、ここ数年世界史系の本を読み漁っていて、世界史への関心があったから、ではない。いや、それは理由のうちのほんのささくれ的部分に過ぎない。きっかけとしては、もともと私が研究していたジョルジュ・バタイユがラスコーを論じていたこともあり、ここ数年、ずっとラスコーが頭の片隅にあって、とりわけクロマニョン人への関心が、前の記事で紹介した西田正規の本を読んで以来高まっていたことが大きい。

 詳しくはそちらの記事を見てほしいが、西田が言わんとすることで、私の中で関心を引いていた事柄をまとめると、どのような「生活様式」を営むかということが人間の主体性の様態に大きく左右するということ、例えば、定住か遊動かでもその相違、さらには定住生活者内での農耕民と非農耕定住民との相違。

 再度、主体性に大きく左右すると思わせる箇所を引用しておこう。

遊動狩猟採集民が明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、それゆえ、食糧を蓄える行為は、いわば、自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。自然の中で、自然に頼って生きるブッシュマンの自然観とは、おのずと異なる自然観である。自然に対するこの不信は、食糧を蓄える多忙な労働によって打ち消される。(49-50頁)

煎本孝は、カナダのタイガに住む狩猟民が、食料も底をついた冬のキャンプで、トナカイの南下をただじっと待つ姿を描いたが、その根底にあるだろう自然に寄せる深い信頼感は、長期的な計画、努力、蓄えに頼って生きようとする定住生活者にはもはや持ちえないものではないだろうが。アイヌが、さまざまな複雑な儀式を通じた神々との駆け引きによって、未来の豊かな恵みの保証を得ようとしたことに、未来を計画し、多忙な労働に耐え、蓄える民の自然観の原点を見ることができよう。そしてまた、未来の制御を確信することこそ農耕を支える精神ではなかろうか(西田、95頁)(傍点、blog筆者)

 未来との関係で言えば、①遊動狩猟採集民(例、ブッシュマン、カナダのタイガに住む狩猟民)らは、食糧を必ず与えてくれる自然への信頼から、未来に定めたなんらかの目的の実現のために現在を犠牲にして日々生きる割合が極めて少ないように思える。他方、②アイヌのような定住狩猟採集民は、西田が言うように、そこには未来への計画性の萌芽がそこにみられる。しかし、それは、未来の制御の確信とその制御への奉仕に常に巻き込まれる③農耕民とは未来への関与の度合いは、少ないことが想定できる。

 かくいう私が研究していたバタイユと言う人は、こうした農耕民が日々行わざるを得ない未来の制御について、それを未来に向けて己を「企て」、目的を達成していくのは、隷属的であるとして批判していた人である。

 未来の目的の実現ばかり考えていたら、現在の瞬間にある享楽をみすみす見失ってしまうんじゃないか、人間とは、先につながるかという意味では、一見何の役にも立たない行為をすることのうちに、その本質があるんじゃないか、まあ平たくそんなことを言っていたわけである。

 当時で言えば、未来への「企て」を“実存主義者”として主張したサルトルなんかを批判しながら、バタイユは、サルトルの背景にもあり、おのれも多大なる影響を受けた、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル解釈が提示する「人間」とは違った、人間の誕生を、世界史的視野から考えるようになっていく。

 そのとき、問題になるのは、「人間」の起源の問題であり、今回私が見に行ったラスコーの洞窟壁画である。

 バタイユは、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』といった人類学の著作への批判をしながら(『エロティシズムの歴史』、『エロティシズム』)、ラスコーで壁画を描いたクロマニョン人に着目していったわけである(『ラスコーの壁画』)

 

 わかりやすく言えば、レヴィ=ストロースは、モースの著作への序文において、人間の誕生を、言語の構造機能が人間の精神の中に宿ったことに見ていたが、バタイユは、むしろ、ラスコーの壁画をもとに、芸術制作を行うことに見出そうとしたわけである。

 

 これまでのバタイユの議論は下手すると、なんらかの未来と関連づけられるあらゆる「行動」(action)が「有用な」ものとして退けられかねない嫌いがあるが、バタイユが参照するラスコーのクロマニョン人たちの生活のあり方、西田が言うところの「生活様式」を考えた場合、もうすこしポジティブに人間の行動様式を考える事ができるのではないか。 つまり、バタイユの議論は、③の農耕民的未来制御を近代的人間の基礎になっているとしての批判として、とらえる事ができて、それならば、①遊動狩猟採集民、②定住狩猟採集民、らに見られるような行為のあり方を、ある種のバタイユの議論のポジティブな雛形として取り出すことさえ可能なのではないか、そんなことを思ったわけである。

 バタイユはあまりクロマニョン人の「生活」のあり方とかまで議論の俎上にのせておらず基本的には壁画の解釈が中心であったわけだけれど、実際のところクロマニョン人は、どんな「生活様式」を営んでいたのか、それが問題になってくる。

 実際、これまでのラスコーに関する議論でも、あまり「生活様式」に着目する議論がないように思えたのも、関心の高まりに寄与している。例えば、ラスコーに関しても、相当影響力のある発言をしたのは民族学者で考古学者のアンドレ・ルロワ=グーランだけれども、彼なんかも注目するのは、人間=クロマニョン人が残した記号的側面で、暴力的な分類をすれば、構造主義的なアプローチをとっているように思える。松岡正剛は『身ぶりと言葉』で感銘を受けた言葉として、アンドレ・ルロワ=グーランの「人間はその思考を実現することができるようにつくられている」(松岡正剛、「アンドレ・ルロワ=グーラン 身ぶりと言葉」)を引いているが人間=思考の表現というあたりも、本質は思考pensée=記号操作主の主体的表現 というような見方もできる。

 こうして、クロマニョン人とは、どんな生活を営んでいたのか、どういった人たちだったのか、最初期の人間とは実際にはどんな人たちだったのか、ラスコー展ではそのあたり詳しく知ることができるのではないか、そんな風な思いに駆られて、上野に行くことにした。

 2. ラスコー展へ

 展示自体は、最新の技術が駆使されていて、まずは、ラスコーの洞窟全体がわかるような模型図だったり、その後で、洞窟の内部が実写で再現された空間が、まるで遊園地のアトラクションさながらに再現されて登場する。わかりやすいように、描かれた描線がライトで浮かびあがるようになっていたり、普通に洞窟に訪れて一目素人が見ただけではわからないような部分までわかるようなっていて、きわめて良質な展示だったと言える。その意味では、1600円など安い。フランスのラスコーのサイトは、web環境の中で、最高度の質を備えたつくりになっていて、ラスコーがどんなところが展示に行く行かないの前に、このサイトを訪れてみるといい。そうすると、壁画の魅惑の一端に触れることができるのは間違いない。そしてこのサイトで展開される空間が、現実に自分の身体をそこに置く事のできるレプリカの場所として再現されているのが、ラスコー展だというのがよくわかるだろう。

 さて、一番の関心は、クロマニョン人の「生活様式」であるが、端的に言えば、展示を見てわかったのは、ただ非農耕民であるということくらいである。狩猟採集民だったとして、定住していたのか、遊動だったのか、イマイチよくわからなかった。パンフレットも買って帰ったが、それ見てもよくわからない。

 そもそも遊動だとしても、まさか砂山のお城のように、その場だけで、一回ぽっきりの楽しみのためにあんな壮大な壁画を残すわけがなく、頻繁に立ち返る(それは季節ごと、何かの儀礼が必要な時だろうか?)場所として洞窟はあったはずだし、もちろん定住者だとしたら、洞窟周辺に居住して、狩猟採集で生計を立てていたという想像が容易につく。つまり、どちらでもいける。

 そういう意味では、興味をもって食い入るように見たのは、クロマニョン人たちが作ったとされるさまざまな道具である。実際に展示では、例えば石刃等の作り方の映像まで視聴できてよかった。

 コジェーヴ的ヘーゲルの世界史観では、人間にとっては、道具の製作が未来の目的に人間が隷属する点で重要なのだけれど、非農耕民のクロマニョン人たちが作っていた道具というのが、実に芸術性に優れている点が興味深い。その意味では、単純に「道具」=隷属 という考えでは、人間理解もできないことがよくわかる。

 

 たとえば、これは「ハイエナのような動物が彫られた投槍器」

 日本での企画展であったこともあって、展示でも日本との関連が示されていたことも継続的な関心を私の中に植え付けた。アイヌや縄文の文化への継続的な関心。例えばパンフレットのコラムにも千葉直樹さんによる「日本先史時代の絵絵画と狩猟文土器」等があったり、非農耕民による芸術ないしアーティスティックな道具製作が、日本の縄文やアイヌにもどのように見いだせるかという視点を作る。

 そう考えてみると、バタイユとも親交深かった岡本太郎が縄文土器に着目したのも、なにか関係しているんではないかとさえ思いたくなるがどうだろうか。

 日本との関係が示されるのは、ラスコー展にも無関係ではないある種のヨーロッパ文化礼賛的な傾向を相対化できるのもよいと思った。

 

 スティーヴン オッペンハイマーが言うように、クロマニョン人とは、最初の原生ヨーロッパ人であり、実際ラスコー展で復元されていたクロマニョン人はただの見慣れた白人ヨーロッパ人でしかない。驚異ともいえるラスコー壁画を描いたクロマニョン人を称える言説には、したがって、どこかでヨーロッパ白人の多人種への優位というイデオロギーが忍び込んでいる可能性もある。しかし、忘れてはならないのは、「ヨーロッパに上部[後期]旧石器時代の栄えある証拠がふんだんにあるのは、人々がヨーロッパでそれをさがしたからにほかならないのだ」(オッペンハイマー、120頁)という視点であろう。

 

 私はまあこんなわけで、ある種特殊な(?)関心からラスコー展を楽しんできたが、ただなんとなくフランス行かなきゃ見れないすごい壁画があるらしい! 的な感じで行こうと思う軽薄な人に、ぜひおすすめしておく。たぶん週末は激込みだと思うけど、ディズニーランドのアトラクションだと思えば、その行列も苦にならないだろうから。

 そうではない人は、まあ平日に、それでもある程度の混雑は覚悟しながら行ってみてください。まあ私みたいに混雑嫌いな人ばかりではないか・・・

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