明治維新期において「一般意志」はどこに見出されうるか――橋川文三『ナショナリズム』『西郷隆盛紀行』


『Hapax,6,破壊』所収の友常勉の「よりより<生>とアジア主義」に、1960年代後半の山谷の暴動を、アジア主義というタイトル内の言葉にあるように、近現代日本史の一視覚と絡めながら、論じたものである。

 

暴動と蜂起にかかわる議論においてアジア主義を参照する理由は、東アジアの地政学的な時間と空間んという準拠枠に位置付けられた近現代日本において、それが蜂起と革命の倫理的真理を規定する条件だからである。(同書、173頁)

とはいえ、アジア主義には最初のほうでだけ触れただけであり、この論考での主軸とは見えないが、それでも最も私が考えさせられたのが、この部分だった。

 

というのは、私の無学ゆえだろうが、友綱は、橋川文三を引きながら、日比谷暴動という大正デモクラシーの初っ端の暴動の系譜に 西郷隆盛の西南戦争を引き、西南戦争をルソー的な一般意志と結びつけて論じていたからである。

 

一般に最後の封建反動とされる西南戦争が、その参加者のあるものにおいては、ルソーの名において戦われたということをどう考えるかというのが私の問題である。(橋川、同書、「西郷隆盛の反動性と革命性」19頁)

 

 この見通しに従えば、西南戦争とは法の精神を失った国家=政治体に対して一般意志を対置することであり、それによって徳の統治を実現する革命である。そして西郷は一般意志の体現者となるだろう。そこに倫理的真理を見出す可能性は存在する逆に言えば、一般意志が倫理的真理を獲得するために必要だったのが、ルソーであり、アジア主義の体現者としての西郷であった。では暴動一般に適応できるだろうか(友常、前掲書、178頁)

 

私の最近の問題意識は、「国民運動」が盛り上がった後で、天皇の生前退位問題が続く中で、天皇という象徴的他者に依らずして、いかに日本列島で「主体」形成ができるのか、統治の「正統性」を考えることができるか、という点にあり、西郷を一般意志と絡めて論じるという発想は、言ってみれば、まだ天皇ががちがちの絶対性を確立する前の近代黎明期の中での政治的「正統性」を考えるということを意味し、興味深かった。

 

 

友常の発想の大元は、橋川であり、というわけで、橋川の『ナショナリズム』と『西郷隆盛紀行』をamazonでぽちって読んでみた。

 

 

まず、『ナショナリズム』を読むことにしたのは、橋川自身の思考の流れをたどる上でも、西郷問題が浮上する前に、あるいは西郷の問題を考えることに至ったのが、『ナショナリズム』での橋川の思考にあるからである。

 

『ナショナリズム』というタイトルは明らかに、つけ間違いである。著者に言わせれば、「どこかで計画と目測を間違ったために、ご覧のように均斉のとれない、中途半端な記述に終わった」とのことである。「あとがき」の渡辺京三が言うように「表題は本来『日本のナショナリズム』とあるべきで、しかもそれとしても、その後昭和期の「超国家主義」となって展開する、いわば日本ナショナリズムの完全発現態は言及されぬまま、叙述は打ち切られている」、そうした未完成の、しかし至極のノートといえる。

 

本書の目次は、
序章 ナショナリズムの理念――一つの謎
第一章 日本におけるネーションの探求
第二章 国家と人間

であるが、内容的に私がさらに目次を勝手につけると、

序章 ナショナリズムの理念――一つの謎
第一章 日本におけるネーションの探求
1. 黒船の引き起こした衝撃49-55頁
2. 封建諸侯とその家臣団の反応55頁-104頁
1) 徳川斉昭

2)  吉田松陰

3.  豪農・豪商(=中間層)の反応105-141頁
1) 菊池海荘
2) 浜口梧陵
3) 吉村虎太郎 豪農らのそうした意識を形成したものはなにか。

4.   一般民衆=農民の反応142-163頁
1) 隠岐コミューン 民衆の武装によって一時的に政治的共同体形成
2) ロシア軍艦対馬占領事件
3) 奇兵隊

第二章 国家と人間
1. 日本人(国学者)の挫折とアノミー
2.   旧領主層のアノミー
3.   一般民衆のアノミー
4.   それへの福沢の評価
5.   明治期日本におけるネーションの実情と、真のネーション形成のために諸政策

 

こういう風に、目次付けできる。

 

日本の明治期のナショナリズムを考えたものであるが、叙述の在り方は、日本の近代史に即しながら、ネーション的意識形成(がうまくいかない場合も含めて)を階層ごとにわけて分析するという点に、本書の特徴があり、自分としては、明治維新期の日本史を階層に分けて考えるという観点が抜けていたため、大変勉強になった。

 

1. 封建諸侯らの特権的富裕層、2豪農や豪商といった中間層、3. 農民中心の一般民衆という三つのカテゴリーでこの時期を考察すると、橋川自身の叙述は、19世紀で終わっているとしても、その後の歴史へのこれら三つの層の関わりを自分なりに考えることができて、大変有用なフレームワークである。

 

私にとっての発見は、もうひとつあり、それは、なぜ明治期から「終戦」まで、家父長中心のジェンダー秩序が政府主導で形成されていったのか、なぜ神道が臣民の教化にあたって必要だったのか、私がこれまで疑問に思ってきたことに対して、橋川は明確な答えを出してくれている点にあった。

 

 

実際、明治「民法」の男性中心主義のハンパなさは、さまざまな概説書(上の『ジェンダーから見た日本史』も含め)で外観できる。例えば、夫は、未婚の愛人(=妾)を持ってもお咎めなしなのに、妻が同じことをすると姦通罪に問われたり、妻には基本的に財産権はなく、それは戸主たる男性家父長の権限に属するものだったり等々。

 

概説書によくあるのは、それまでの近世社会(徳川時代含め)では、男も育児したり、料理したりしていたし、同性愛も盛んだったし、うんぬんの、明治期以降の近代日本のジェンダー秩序の悪評の羅列であり(というか少なくとも私はそう認識していた)、しかし、なんで近世のジャンダー的に明治期より平等の側面があった社会が、近代のそうした社会に変わったのか、その説明が欠けていたように思える。

 

しかし、橋川によれば、なぜ家父長中心のジェンダー秩序が明治期から作られることになったのか、それは、日本にはネーションが欠けているから、これに尽きる。 もともとネーションの意思決定機関としての国家 政府があるというのが正常な姿(というか西欧近代の歴史)であったが、しかし、日本では、明治維新によって近代国家たらんとしたが、その維新の主体は、決してネーションなどではなく、一部の下級武士層(薩長藩閥)だったわけである。とはいえ、対外的には、明治政府は、自分も近代国家ですよ、ということを示す必要がある。そのためには、日本にも、「国民」(ネーション)が必要だし、「国民」を作らないといけない。

では、どうやって作ったらいいだろう、まず明治政府が行ったのが、(「四民平等」によって一応封建的権利を排しながら)徴兵と徴税であり、そのための戸籍の形成であった。近代日本の戸籍の編成の特徴は、戸(家)を通して個々人を登録することにあった。なぜか、それは言った通り、近代的個人、「国民」がいない社会で彼彼女らをあてにしなかったしできなかった(かもしれない)し、したくもなかったからだろう。

 

明治民法において戸主に与えられた家父長権の強力さは、一面ではその家族を従えて祖先を祭祀する権利の掌握者としての意味を持っていたが、それはまた、本来武士階級の持っていた君主への忠誠心にあたるものを、一般民衆の中に導入しようとする巧妙な装置でもあった。222

 

橋川も書くように、問題はそうした「家」概念は幕末明治の民衆には無縁であった、しかし、民衆の上昇願望(上の階級がしていたことをしたい、そういう暮らしがしたいetc…)をあてにしながら、家父長が強い、いわば武家社会の家族性を、明治政府は、日本の近代社会の基礎に定めることとなった。

 

そういう意味では、ネーションがいないからといって、男性中心の家制度が必ずしも必要ない、という考えも出てきうるが、おそらく、明治政府は、武士たちの主君その他への忠誠心をあてにして、武士の家族をモデルに考えたのだろう。民衆はあてになどならない、本書での封建諸侯の考えにもある発想である。

 

こうした考えのもと、明治民法が作られ、男女関係含め社会や家族が法的に基礎づけられていくが、対外戦争(日清日露戦争)を行う中で、生じて来る問題が、強固の「郷土感情」が、「祖国愛・ナショナリズムと矛盾する作用をさえあらわす」(橋川、同書、28頁)場合である。家族への愛情や郷里への愛情とは、パトリオティズムであり、自然成長的である。

 

パトリオティズムはもともと「自分の郷土、もしくはその所属する原始的集団への愛情であり、(略)あらゆる種類の人間のうちにひろく知られている感情」にすぎない(橋川、23頁)

しかし、与謝野晶子が「君、死にたまうことなかれ」と日露戦争に出征した弟へ詠んだ歌にあるように、こうしたパトリオティズムが、反日露戦争に実際、結びついて現れ出てきたのである。

 

どうしたら郷土や原始集団への愛情と、国家への愛情を結びつけることができるか、そう考えたときに明治政府が目を付けたのが、民衆のうちにあった、祖先崇拝である。先の引用個所にあるように、家長は、祖先を崇拝の祭祇の指導的実行者であり(というかそういう風に役割付けようとした)、こういう民間の祖先崇拝を、当時の国家に換骨奪胎された神道を強制し、そこに重ね合わせることで、各戸(家族)の父親の、本源的な父としての天皇、そしてそこをさかのぼればいわゆる「神代」の天皇へ… というような制度を導入していくのだ。もちろん、東京招魂社、のちの靖国神社の創設はこれと絡んでいるのは言うまでもない。

 

私にとっての発見は、以上だが、本記事のタイトルにあるような、明治期における一般意志をどこに見出せるか、という問いについては、本書では、見いだせない、という答えが導き出せるだろう。なぜならネーションが欠けているからである、繰り返しになるが。

 

では、なぜ西郷が問題になるのか。少なくとも、明治期において、上から形成された「ネーション」たちには、橋川は否定的だが、しかし、第二章の最後で、考えようとするのが、「下から」のネーション形成の志向の問題である。

 

そこで出てくるのが、西郷の西南戦争と、自由民権運動である。第二章終わりで、民権運動について橋川は書くが、基本的に彼の言わんとするのは、民権運動は、今日でいえば、右翼的な運動にすぎない、ということの強調である。「自己の保有する有為の素質を有効に吸収組織しえない権力への怨恨」が民権運動主導した士族にはみられる、というように。

 

ただ、橋川が言うように、民権運動の(歴史的)評価を行うには、紙幅が足らなさすぎるし、右翼愛国的運動だったという主張のみで、そうか、と合点が皆がいくかといえば、そうではない。

 

橋川自身は、こうしてこの後西南戦争の行き着く西郷に、「下から」のネーション形成の可能性を見出そうとしていくわけだが、橋川のその後の本を見る限り、抜け落ちているのは、やはり自由民権運動への考察、とりわけ士族民権ではなく、豪農の運動へのかかわり、激化事件のときの民衆の動きへの考察だろう。特に、彼がルソーとの関連から、西郷隆盛を問題にしようとするならば、それこそ東洋のルソーたる、中江兆民と民権運動との関係を考えていく必要があるだろう。

 

実際、『西郷隆盛紀行』を読んでみると、橋川自身は本当は西郷の評伝を書こうとしていたみたいで、その挫折の結果がこの紀行文なわけだが、一般意志とのかかわりで興味深い部分は、私にはなかった。強いてあげるとすれば、友常が着目した原因であろう、西郷が西南戦争以前に、薩摩の藩政の揺れ動きの中で、南島(奄美大島)に流刑されていて、自分を世捨て人的に思っていた部分、薩摩と奄美大島という宗主国と植民地という関係の中で西郷が世界(アジア)を見ていた、という部分だけだろうか。   面白くないといったら、言い過ぎだけれど、この本を読む限り、このラインは、けっこう煮詰まっている、突破口がない、と感じたかな。問題意識ばかりが何度も繰り返されるが、それ以降は、想像(これ自体はおもしろい)の散発に終わっているというか。

 

一般意志を考えると、まるで橋川が下からのネーション形成を理想的にしていて、そうであれば日本の歴史はよかった、的な発想に行き着きうるようなところがあって、そこには注意しなければならないけれど、今後も、橋川からもらった問題意識、つまりは中江兆民と民権運動あたりの本を読んでいこうと思う。

 

 

 

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