ここに収められた「起源と反復――伊波普猷について」は、羽田から那覇へ向かう飛行機の中、滞在一泊目の夜に泊まった読谷村のホテルで、読了した。
出自としては中国系琉球人である「沖縄学の父」である沖縄の明治期の啓蒙知識人、伊波普猷は、その著作を通して、清と薩摩の二重の被支配状態[両属]にあった近世琉球王国を蔑視し、その代わりに、明朝との冊封関係を持っていた古琉球王国を理想として、そこに想像的な理想を見出す。もちろん、その想像力こそが、言ってみれば、「帝国日本」の異民族啓蒙知識人のネーション形成への企図と希望であるわけだが、この同じ想像的空無の場所を、「原日本」としたのが柳田国男主導の民俗学であった。見事なまでに、村井は、帝国主義国家官僚柳田と異民族啓蒙知識人との結託のうちに、つまりは、柳田と伊波が共に夢見た想像の共同体のうちに、デリダを念頭に置きながら、「音声中心主義」を見出す。琉球の言葉を異他的な言語としてではなく、「標準語」と結びつく「方言」として位置づけるのみならず、「原日本」の痕跡をとどめる言葉として伊波が見出すとき、そこに音声としての和語の根源を伊波が見出すとき、抑圧されるのは、薩摩との関係以前に古琉球との関係が深かった中国由来の漢語なのである。
かくいう私は、沖縄戦の住民被害に焦点を当てる「沖縄平和学習」について行った身で、村井の本書を念頭に置きながら、各地の戦跡や資料館を歩き回るに、沖縄・琉球の歴史から中国との関係を抹消とまでいかずとも、曖昧模糊とする展示が見られると感じた。
それを感じたのは、首里城である。首里城は、正殿に正対したときに、右手と左手の建物で建物のデザインが大きく異なる。右手は、和的デザインなのに対して、左手は、中華風のデザインである。日中両属体制にあって、薩摩=幕府の使節がやってくるときは、右手の建物から王座のある正殿へ通し、他方で、中国(明、清朝)の使節がやってくるときは、左手から通していた。しかし、首里城の巡回ルートは、右手の和のデザインの側から、いわば薩摩=幕府側から観光客を通す流れになっていて、正殿を通ったのちに入る中華デザインの方に入るや、そこには琉球と日本との歴史的関係を表す展示と、お土産品の販売コーナーが露わになる。
このルートで入るや、中華デザインの建物にはまったく観光客たる我々には、もはや首里城の閲覧(?)は終わったと思う方が自然である。しかし、琉球と日本との歴史を示すパネルやお土産品コーナーのある部屋の外壁には、中国の使節が琉球にやってきた時の模様を描いた絵巻物がぐるっと張り巡らされている。それについての説明はない。だから、私はインフォメーションの方に、あれは、琉球側の使節が中国へ行ったときの絵なのか、中国の使節が琉球に来た時の絵なのか、訪ねて確認しないといけなかった。
もちろん、首里城の観光客の主流を、基本的に本土の日本人を念頭に置いているとすれば自然なことなのかもしれない。ただし、2017年の11月初旬には、周囲には修学旅行生だけでなく、しばし中国からの方や欧米からの観光客もちらほらしていた。実際、中国語と韓国語と英語のインフォメーションが示されている以上、観光客としての「外国人」は無視されていたわけではない。
村井の本書を読んだあとだからかもしれないが、私にはたいへんそのあたりに、政治性をかんじざるをえなかった。
村井の批評を読みながら、もう一点考え深いことがあった。村井によれば、柳田ら「日本民俗学」は、1930年代、「常民」たる農民たちの郷土を対象として聴き取り、研究をしていくが、そのとき、その郷土たる農村は、むしろ現実的には崩壊の危機にあった。常民たちは、満蒙開拓に象徴されるように、海外に村ごと(正確には分村移民の形態が大半)移民するか、移民しないとしても、青年から壮年の男性は、兵隊として海外に出征した。そうした現実的には解体の危機にある空虚な農村に残ったジジババたちの聴き取りから、想像的にあるべき「古代信仰のもとの姿」(折口)などを夢想していた。
それだけでなく、60年代から90年代に至る、島尾や大江、吉本隆明といった人々によって再興される「日本民俗学」においても、根本的に欠落していくことともの、それは、常民農民たちの加害性やその暴力性である。誠実な「常民」たちの夢想的な世界から浮かび上がるのは、(吉本的に言えば大衆の原像からは)貧しくも清く正しく美しい平和な「信仰生活」だけであり、「常民」たちが、中国大陸では鬼子として、あるいは軍神として、その残虐性をあらわにしていたことなど、まったく語られないのだ。それは、大江が、『ヒロシマノート』に連なる形で、『沖縄ノート』を書くことで補完されていく。
要するに、十五年戦争の「被害」に焦点化するとき、「常民」の実際上の姿が隠されるということ、それこそがコロニアリスムがもっとも隠蔽したいものであるというのに。
そう考えたとき、「平和学習」として沖縄の戦跡や資料館を回るとき、私としては当然次のように懸念せざるをえない。私たちは、本土からやってきて、「沖縄」を、日本軍や日本政府の被害者としてのみ扱い、それが広島や長崎の原爆学習と合わさったとき、最終的に問われるのは、軍や政府のファナティックでファシスティックなあり方に過ぎず、だからこそ「平和な現在に生まれてよかった」という感想さえ、そういう学習をするひとに強いている側面があるのではないか。
翻って、現在、私が沖縄について、最近はやりの質的調査系の本を読むたびに直面するイメージとは、残虐性がないまぜになったその姿ではなかったか。
上間が描くのも、失業率の高さに象徴されるように経済的に他の都道府県よりも厳しい現状の中、またホモソーシャリスティックなヤンキー社会の中で、タイトルさながら”裸足で逃げ”ざるをえなかった、少女たちの姿である。
他方、著作として一冊にまとめられてないが、シノドスその他のサイトやpdfで読める、打越正行の研究は、沖縄のヤンキーの男性社会を対象としている[1]http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52067 https://synodos.jp/society/19337。
そこからは、簡単に対象化不可能な社会の一端に触れることができるし、凡庸な言い方をすれば、沖縄の社会の闇に慎重で独特のアプローチをしているといえるだろう。
しかし、そういう現在の基地問題も含めた沖縄の「実像」(これ自体慎重に扱わなければいけない概念であるが)に、現在の平和学習なるものが、適切に迫る、せめて距離を縮めることが本当にできるのだろうか、そう帰りの飛行機の中で自問せざるを得なかった。
思い返すと、基地の街コザに行ったとき、私が生徒とバスを待っていると、だらしないまばら金髪の40半ばくらいの、ヤンキー上がりっぽい不在の男が、横に座ってきて、一服し始めた。そして、私たちにむかって、「うちなーんちゅは、本土の人間を嫌っているからな。」と唾を吐くように言い放った。そして、それを見た、ガイドさんが「行きましょう」と言うと、男は、「うるせい ババアが!」と返した。
人間の持つ残虐性、暴力性、それはもちろんどの社会でもどの集団でも現れうるだろう。しかし、それは、戦争の様な極限状況でこそ、露わにすることをより一層個人に強い、それが集団として現れるのではないか。その意味で、戦前においても、沖縄の人々にはどんな残虐性を暴力性を内にはらみながら、生きて、生き延びて、そして「沖縄戦」に突入したのだろうか。純然たるかわいそうな、反抗さえしない、被害者しかそこにはいなかったのだろうか。そんな想いが頭の中をぐるんぐるんと駆け巡っている。
References
↑1 | http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52067 https://synodos.jp/society/19337 |
---|